2022年12月12日

人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す (でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)


人間は物語を残す(history)と同時に教訓を残す

(でも人間は知恵の実を食べて神のようになったとしても賢くなれなかった)

●個々の体験から教訓を得る

お骨には意味がなくその人の一生が人生でありそのstoryを残すと私自身の家族の歴史から書いた、それは私的なものだから他の人は関係ないとするかもしれない
でもやはりstoryはhistoryとなったように歴史は物語でありその物語が必ず教訓を残しただからいろいろな庶民が残した諺ですら人間がこれまで生きてきた中で残されたものであり教訓となっているのである、それは時代が変わっても変わらないから活きているのである、ということは人間そものもがいくら科学技術とか社会が変わっても変わらないから活きているのである
「金の切れ目が縁の切れ目」というときでもそうである、それが今は極端にそうなっているが昔でもそういうことがあり今に活きているのである

私が経験したことを書いたが私的な家族のことに留まらない教訓として読めるともなる
深く読んでもらうと確かにそこには教訓がある、兄の不幸は私の家とかかわり私の家が責められるものだった、でもその後の兄のことが全部私の家の責任とはならないと思う
何か金使いあらく結婚してもうまくいかず借金したことで離婚になったのか、そのいきさつはわからないにしろ何かしら兄自身にも責任があったともみる
いくら不幸な生い立ちでもその人自身がその生い立ちや環境にその責任がすべてあるとは思えないのである、ただ自己責任を余りに言いすぎるのも問題である

兄は過酷な運命に生まれたことは確かである、でも境遇はみんな違ったものになる
その境遇のせいにすべてができるのかとなると疑問である
ただ同情することはありそれで墓標を建てたてて供養している
ただ不運の星の下に生まれた人はいる、するとそのカルマを相当に自覚して生きないと
同じことが起きるのかともなる、兄の交通事故の原因はそもそも離婚したり借金したりと追い詰められた結果そうなったともなるからだ
それを恵まれた自分自身が言いにくいにしてもそうである
人間は誰しもカルマを背負っている、それが苦しみとなって現れる

人間は何であれ一人の一生でそれが別に優れた人でもなくても必ず教訓を残すのである
実家のめい子にしてもそうである、母が姑に嫌われたとしても自分だけは金持ちの人と結婚したりして娘を置いてそうしたから今度は認知症になったときその娘に頼ることはできなかったのである、娘は母親とすら思っていなとも見たからである
ただ金が欲しいというだけだったからである
その不幸は家を出るなら娘と一緒に出るべきだったともなる、自分だけが出て金持ちの人と再婚したということは勝手だったとなる
子供手放すというときそのことがあてはまる、それも教訓だった
小説ではないが小説でもそれが事実に基づいているから教訓を伝えるとなる
ただ私自身は小説は苦手でありなかなか深く読めないから読んでいない
でもこれを題材にすれば小説家なら書けるだろう、事実から小説が生れているからである

●歴史も必ず教訓を残すから学ぶべき

歴史もhistoryも必ず人間に教訓を残してきたのである、だから歴史を知るというときそこから教訓を学ぶということである、歴史となると大きなものになるからわかりにくいことがある、でも必ずそこから教訓を伝いているのである
その教訓を読み取る努力が必要になる、これは相当にむずかしいことになる
個人でも謙虚になれということはわかる、でも歴史の中でもやはり謙虚にならないで傲慢になって失敗した例はいくらでもある、野郎自大国が漢をみくびって戦争に負けた
そこにまさに夜郎自大国になっていたのである、それも教訓だったのである
それは実際日本の太平洋戦争でもアメリカの大国と戦争して勝てると思ったのも傲慢だった、相手をみくびりすぎたのである、そしてアメリカがどれだけ強大な国かを知らなかった、アメリカを直接接して知っている人はわずかだったからである
だからやはり野郎自大国になっていたとなる

結局なぜ人間は失敗するのか、それは傲慢になったからだとなる
個々人でもそうである、事業に失敗した人は意外と傲慢になって失敗したとなる
母親の実家の父親は警察署長だったから機織りの会社を経営して成功すると思っていたのである、でもその方面の経験とか知識に欠けていたようである
詳しいことはわからないにしろ警察署長だから成功すると思い傲慢になっていたのである母が言うには威張ってばかりいたと言っているからである
何かこの傲慢になることが人間が失敗する原因で多いとなる、その人が事業に失敗したのも確かに簡単に誰もとれない一級の免許を持っていた、だから会社に勤めている時は優秀な技術者として認められていたのである、でも事業をするというときまた違ったものになる、でもその人もそういうふうに技術者として優秀だと認められていたから事業を起こしても成功すると思っていたのである
その失敗の原因は傲慢になっていたということにあり共通しているとなる

他人のことを言うが私自身も失敗だったのである、結局何かをやろうとしてやることもできず引きこもりで終わったとなる、そういう機会も与えられず終わったとなる
多少教育に興味があったがそれも結局は経験を積み重ねることができず失敗だったとなるただもともと短歌とか俳句とかは作っていたからそれは継続して詩でも作って来たのである、その面では積み重ねで我なりにいいものができるようになったとみている
でもそれも時間をかけたらやっと死ぬ頃になって花が開いてきたともなる
人間は最初は芽にすぎない、でもそれが花開く時がくる
それも時間がかかるのである、自然と接して自然を知るには時間がかかる
だから都会から何か都会人からは芸術家とか天才が現れないというのも自然と接することがなく自然がどういうものか学べないからだとなる

●老人は経験を積んで賢くなる、二百年も生きればもっと賢くなる

だから青年はどんな老人でもいい、その老人から何か学ぶものがある
例えばとるにたらないくだらない老人でもあんな老人になりたくないとみれば学んでいるとなるからである
どういう老人になるかとなるとやはりすでに若い時から人間形成が始まっているのであるつまり若い時が大事なのはその方向が決まるからである
それでカルト教団などに入るとそうした時間でも労力でもただ奪われるだけだとなるから怖いのである
ただ私の場合は別に早い時期にやめたからそれも一つの経験であり教訓を得たということである
人間はもしかしたら成功した時かえって傲慢になり教訓を得ることがない
でも失敗した時必ず何らかの教訓を得るとはなる
人間とはその繰り返しカルマの繰り返しだともなる、なぜならカルマは延々とつづくからである
恐ろしいのは原発事故の失敗は未来永劫続くということである
その事故の失敗は余りにも大きいものだったのである

ともかく人間は賢者になれない、その歴史を見ても愚かである、その愚かさは何百万人も戦争で死ぬとなるから怖いのである、その反省があれば戦争などしないとなるがやはり依然として戦争があるのは人間が賢くなれないことなのである
一人の人間が賢くなったとしても大勢の人は賢くなれない、それは大衆化した社会をみればわかる、民主主義の数で決める政治ではかえって能力もないモラルもない人が選ばれていることでもわかる、数で決めるならどこでもそうなる
何か先見の明がある人など選ばれないだろう、政治とは権力争いでもあり権力を掌握するものが命令するともなるからである
要するにこうして人間が賢くなれないことが絶望的なのである
それは民主主義であれ社会主義であれ資本主義であれそうである
システムや組織を変えたとしてもそうである、個々人のレベルがあがらないと根本的にな解決にならない、でもどうしても大衆社会では賢者とかはありえないのである
水平化されてみんな同じだとなるからである
それで賢人政府なども実現できないのである

●エデンの園の禁断の実を食べて神のようになろうとしたがなれなかった

それは人間のような知恵がないからである、それはエデンの園で禁断の木の実をリンゴを食べたためである、それを食べてどうなったかというと人間自身が神となり知恵を持つものとなった、神が治めるのではなく人間自身が神となることになった
その原罪があり人間は自らを神として生きることになったのが根本的な原因なのである
でも結局人間の知恵は神に及ばないから人間社会は治まらないのである
絶えず争いがあり戦争もなくならない、法律を整備しても科学技術が進歩しても原発事故のように大事故になり取り返しのつかない失敗をした
それはギリシャ神話とかでも予言されていた、火を盗んだプロメテウスがゼウスから過酷な罰を与えられた

要するに人間は神となり知恵あるものとなり世界を治める

それができなかったのである、人間の知恵は神の知恵には劣る、神の知恵を凌駕することはできない、だから原発でも人間の知恵で作ったとしても崩壊して故郷に人間は住めなくなったのである、人間が自らを知恵あるものとして神のようになったときそれこそが傲慢であり人間はそのために高度な文明でも崩壊する、科学技術でも原発事故となり遂に核戦争で滅びる、ハルマゲドンで最終戦争で人間は滅びるとなる
それが智慧の実を食べた人間への罰だったのである
現代の文明自体が知的に技術的に高度ともならない、エジプト文明でもマヤ文明でも高度も知的で高度なものがあった、今でもピラミッドが現代の技術で再現できないものがあるでもどんな高度な文明があってもそれも滅びる、砂に埋もれジャングルに放棄されて埋もれたのである

人間の知恵で作った文明は永遠のものにはならない、神の国に永遠の都がある
つまり遅かれ早かれ文明は滅びるのである、人類も神の意にかなわないものとして滅びるのである、大都会があってもそこには美がないのである、それが致命的なのである
なぜそこに美なる荘厳な都を作れないのかとなるからだ
人間がいない自然状態のままの世界には美があった
それは津波で再現されたのである、八沢浦が元の美し入江にもどったということを書いたこれはそこで死んだ人もいたのだから批判された
でもその時入江にきらきら日がさして波が寄せてきたのを見た時驚嘆した
津浪は確かに悲惨だったけど自然は美を作り出すということである

●永遠の都はこの世にはない

それに比べると東京とかでも一千万人住んでいてもそこに美がないのである
それが致命的なのである、一千万人も住んでいれば確かに経済力とかはある
てもそこに美がない、田舎なら何もなくても自然の美はある
すると文明自体が何なのかとなる、かえって自然の美を破壊した怪物都市でありそんな所に人間が住めるのかとなるからだ
巨大な胃袋であり精神的なものがない文化がないのである
例えば天才でも都会からは生まれない、一千万人の大都会があっても天才は生まれない
育たないとなる、地方都市から生まれているのである、フィレンツとかルネサンスが起きた都市でも五万くらいだったのである、だからなぜそんな小都市からあれだけの文化が芸術が創造されたのかとなる

要するに人間の知恵で禁断の木の実を食べて神のようになったとしても人間の知恵は神の知恵には及ばない、だから必ず自壊して滅びるのである、永遠の都はありえないのであるそこに人間の限界がある、それはアダムが食べるなと命令した禁断の木の実を食べた結果として人間に起きたことなのである、それが人間のカルマとなり宿命となり今日までつづいている
人間はどうしても神のように賢くなれない運命だったのである
だからどうしても個々人でも失敗するし社会自体でも国でも失敗するのである
人間の愚かさはいくら文明が発達しても消えることはない、かえって人間は科学技術でも核戦争ともなり原発事故ともなり滅びるというのか運命なのである
それはエデンの園で禁断の木の実を食べて人間自ら知恵ある者として神のようになったというときから始まっていたのである

それで神に逆らうものとして人間がありバベルの塔を建ててもそれが崩壊するのである
それがまさに現代の文明でもある、原発事故のように崩壊するのが定めだったのである
人間は個々人でも全体でも社会でも賢くなれない、確かに歴史で教訓を残したとしても
依然としてやはり教訓は必ずしも活かされないのである
それは個々人でもそうであり社会全体でもそうである、だからカルマを繰り返しているのである、その原因はまた人間の欲にある、人間から欲がなくならない、それでもう68歳とかで熟年離婚したりする、不倫したりしているのである
人間の欲はそれだけ強いし消えないのである、だから人間が生殖して生き続けているともなる、それだけではない人間の欲は様々あり老人になったから消えるけでもなくかえって最後の欲望がでてくるともなる
そのために人間は欲で滅びると予言されたのである

●個人的には賢人はいる、でも大衆はほとんど賢くなれない

いづれにしろ社会全体でも賢くなれない、個人的にもなれない、ただ個人的には賢人とかいてギリシャではソクラテスとかが賢人政府を作ろうとした、それはあくまでも理想としてであり現実化はされないのである、むしろ政治となると権力闘争でありマキャベリズムになるのである
個人的には人間が百年ではない二百年とか健康で頭もボケないで活発であれば賢くなるとなる、成せなら外国でも理解するのがむずかしいからである
一つの国を理解するだけで何十年ともかかってしまうこともある、それだけグロ−バル化すれば知識も膨大に拡大するからである
でも歴史的には人間は何千年経ても賢くなっていないのである
個人的にはもし最初に老人となり青年となれば賢く生きれる、結局若い時は享楽に走ったり無駄なことで費やされる、そして時間を浪費するのである
もし老人から青年になればそういうことはない、時間の貴重さを知っているからである
また200年も生きるとなればグロ−バル化した世界では知識も膨大になっているからそれだけ元気に生きれるとしたら理解も深まる
たいして才能がなくても一つの分野の大家になれる

私自身が何でも理解することでも遅すぎたからである、でも遅いとしても長く元気に生きられば成果が生まれてくるとなるからである
個人的には確かに賢人はいる、それも極わずかである、あとは大衆となるとパンとサーカスになる、大衆社会となるとファシズムとなりポピュリズムとなり大衆を扇動するカルト教団とかが席巻してナチスになったのである、今ならカルト教団がそれと同じなのであるともかく人間は賢くなれない、やっと死ぬ間際になって人生はこうだったのか人間とはこういうものだったのか別に本を読まなくても体験から知るから老人は悟ったようになるのである、賢い人にもなる、でもまた老人でもやはり賢くなれるのはわずかだとなる
そこに人間の絶望があるとなる、科学技術ですべては解決しないからである

いくら科学技術が発達しても高価な機械で身体を診ても医者に見る目がなかったらわからないのである、それで脳卒中の前兆症状が三つもでていたのにわからなかったのである
一回は遠くの病院で診てもらい近くの医院でも診てもらってもわからなかったのである
科学技術の恩恵が大きいことは否めない、でも全能ではないのである
だからこの世の問題がすべて科学技術で解決されるというのは一つの空想にもなる
そうあってほしいというとき科学技術者が神のように見えるとなるが神の知恵を人間は持つことはできないのである、だから原発事故にもなったのである

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

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