郷土史とは何かー支配者ではない庶民を語り残すこと
(街一軒の自転車屋の死で考えたこと―庶民が歴史に記される時代)
●インタ−ネットで郷土史を各自追求できる時代
郷土史とは何かとなればそれは狭い地域であっても広範囲でありそれで理系も課かわてくるので私は文系であり地質学とか科学に弱いから語れないことがあった
地質学というときそもそもどうしてその土地が成立ちどういう土地なのか知ることであるそれで最初は日本全国を旅して「地名」に興味をもったことが自分自身の大きな歴史であれ郷土史であれ関心を持ったのである
どうしても学校の教科書で教えられたことは興味が持てなかった
でもだんだんと郷土史というより郷土学のようになり今は相馬新報とかなった
そこで書いているのは広範囲だからそうなった、今があり昔があり時間軸と空間軸と郷土を放送する、それはインタ−ネットができてホームページとかプログが個々人でもメデアを通さなくても発表できることになったのが大きかった
それでメデアが今までも新聞とかテレビに独占されてどれだけ力を持ったか知った
報道する力は実は大きな力を手にした、権力を手にしたことなのである
これまでは新聞であれ雑誌であれ本であれメデアをマスコミを通さなければ知らせることもできなかった、つまり報道することは権力を持っていないとできないことだったのである、だからこそマスコミは第三の権力となっていた
そこで宣伝してもらえば商品でも知れ渡り売れるとかありまた人でもマスコミに出ただけでたいした人物でなくても知れ渡り議員にもなれるとなった
それで「青島だ」とかふざけているのかそんな人でも東京都知事になったのである
それはマスコミの力でありその人の能力ではなかったのである
メデアは仲介するものでありその仲介するもものが力を持った、そのメデアに出るにはメデアの許可が必要でありそれはまた権力を持たない者は出れないし発言もできなとなっていた
でもインタ−ネットだと一応誰でも手間であれ発言はできなる、それは大きなものとならないにしろ発言はできる、ただインタ−ネットだと本当に誰も読まないということが普通に起きる、膨大な人がプログを書いているからそうなる、そこで目立つのは極少数になってしまうのである
だからいくら発言が自由になったとしても必ずしもそうはなっていないのである
膨大な数の中に重要な発言でも埋もれることが普通にある
だからネットの世界で目立つことは至難なのである
ともかくインタ−ネットの特徴としていろいろあるにしてもその人の住んでいる場所が基点となり発信する、ということは郷土史とか郷土学と密接に関係するのである
さらにその郷土の狭い範囲で基点になるのはその人が住んでいる家なのである
郷土史は家の歴史からはじまる、歴史そのものが家の歴史なのである
聖書もそうである、日本でも天皇家の歴史が歴史となっていることでもわかる
家は先祖がいて祖父ー父ーと系譜があり一軒一軒が郷土の歴史なのである
ただその中でも古い家はその土地に代々歴史を刻んでいるからそこを中心としてみる
野馬追いに出る家は歴史として保存対象にもなっていて野馬追いの場合勝手に旗印を作り行列に出れないのである、正確な歴史の再現でありハロイーンとかの馬鹿騒ぎとは違う
そもそもそれは日本の歴史とも何ら関係ないのである
祭りというとき小さな村でも代々伝えられたものがありその再現だから歴史的意味があるその歴史を伝えるために祭りがある、そこに祭りの意義がある
●郷土史はそれぞれの家から始まる
いづれにしろ郷土史は郷土学は家の歴史から始まる、私の父のことを書いたが他にもどうしてその家が成立ったのか自分の場合二代目にしろそれでも歴史なのである
只野家とかなると南北朝までさかのぼるから古い旧家だから違っている
そして意外とそれぞれ住んでいる場所が古くから人が住んでいた、この辺ではもともと農民が中心に住んでいた、だから街とかあってもそこは農家が多かったのである
町というとき宿場町でありそれも農民が参勤交代の時に臨時に侍を泊めるものとしてあった、それで双葉では長塚宿があり新山宿があったとなる
交代で村の人が接待したとなる、双葉町という地名は明治以降できた町名である
それで私の家の近くの神社に文明時代の碑がある、また法印の山伏の墓もある
ここに天明の碑があるということはここも古いとなる
まず江戸時代の碑には注目する、天明は飢饉の年でありこの辺でも何らかの影響があったでも街だと明治以降になると農民ではなく商人とか職人が移り住んだ、農民がいてもそっちの方が多いとなる、でも依然として街から二百メートルくらい離れた場所に田畑が広がりそこには農民が住んでいて農民の付き合いが代々ありよそ者は住みにくいということがある、小さな町でも外から住む場合そのことを知るべきだとなる
そもそも農民共同体としてあり街内でも農民がいて他所から来た人も住むようになった
郷土史というとき相馬藩政記があり相馬藩は代変わりしていないから外の人も参考にしている、相馬藩は六万石でもそれなりに大きい藩でありごからこそ伊達藩とも対抗できたともなる、第一相馬野馬追いの壮観を見る時そうである、なぜこれだけの行列が歴史に基づいてできるのかとなる、相馬藩は300藩あった江戸時代に60位の格があった
それなりに大きいというのでもなくても中堅の藩だったとなる

●地歴として郷土史、郷土学
ともかく郷土史でも空間軸があり時間軸からみる、空間軸から見るのは比較的わかりやすいのは今でも空間自体は地理自体は変わっていないからである
でも地理でも福島県の地理でも簡単にわからない、地理は車とかで行ってもわからない
土地の高低差などがあり体の感覚で知らないと体得できないからである
私は自転車で相馬藩内なら回っているから体で知っているとなるそれでもわからない所がある、空間でも知るのは容易ではない、会津になったらもうわからない、山また山である二千メートルの山がひしめいているからである
また空間だと地史とも関係している、地歴というとき地理であり歴史を合体したものである、だから地史というときもそれは日本列島がどうして成立ったかまでさかのぼらばならない、とういうのは阿武隈山脈は高原は意外と古いのである
それで地盤が安定しているから放射性廃棄物を地下深く埋めておくのに向いているとか言われたのである、そういうふうに地歴を知ることが郷土史でも不可欠なのである
そして時間軸で見る時、これも重要だった、なぜなら400年前の慶長津波のことが相馬藩政記に二行だけ700人が生波(いくなみ)−津波で溺死したと記されていた
これほど重要な記録はなかった、でも学者すら知らなかったのである
これは大問題だったのである、なぜならこの辺には津波は来ないとしていたからである
だから津波のことを三陸のように警戒していなかったのである
そして相馬藩政記でも戦争のことはことこまかに記している、どこどこで戦争があり誰が死んだか誰が活躍したとかはこととこまかに記している、つまり戦国時代では庶民のことは話題にならない、支配者の侍の関心は戦さにあったからである
特に相馬氏は騎馬軍団を率いてこの地の支配者になったからそうである
土着した豪族と衝突して争いになり戦争になっていたからである
相馬藩政記の主流となるのはその戦(いくさ)のことである
庶民のことではない、だからこそ津波で700人溺死したことは大事件でも二行した記されていなかったのである
今だったら絶対にそういうことはない、いろいろ記録が映像でも残される
私自身もデジカメで写真をとってプログで放送したからである、その時はアクセスが相当あった、関心が震災や津波や原発事故でここに集まったからである
確かに福島民報や民友とか福島テレビとかでも放送した、でも個人で放送したということの意義は大きかったのである、そんなこと今までできなかったからである
それは明らかに全国の人達が見たのである
なぜ相馬藩政記で400年前の津浪の被害を二行しか記されなかったのかとなれば侍が支配者であり庶民は発言することもできないし記録にも残せなかったのである
何らか残っていいと思う、正式に紙に記さなくても伝説とかでも語りでも伝えられていいとも思う、でも紙に記すにしても紙が必要であり文字も書かなければ残らない
紙は紙漉きであり相当に貴重なものだから庶民は使えないものだったともなる
つまり記録することは金も必要だったし文字も書けなければならなかった、それがその時代に庶民にできなかった、侍にはできていたのである
ただ江戸時代の後半になると読み書きソロバンを寺子屋とかで習った
それで識字率があがった、その頃になると庶民でも記録することができたとなる
でも実際は侍が記録していたのである
もしその400年前に庶民でも記録することができたらその津波のことを記していたらそれは貴重なものになった、そして後世に伝えられて今回の津浪も警戒して被害をが少なくすんだともなる
●記録されるのは勝者であるーこれからは一庶民が歴史にその功績が記される
要するに記録することでも発言することでも現代でも放送することは権力を持たないとできないのである、そうなると庶民が直接発言するのではないから必ず歪められるし重大なのことも放送されないのである
そして狭い地域となると余計に報道できない、例えば福島県でも広いからである
地理的に広く中通りとは浜通りとは阿武隈山脈でさえぎられて地理の一体感がないのである、会津にしても地理的には隔絶した地域でありわかりにくいのである
福島県を一つの国と見ることは地理的にはむずかしい、地理的一体感がないのである

(隠された社一つが語るもの)
http://musubu.sblo.jp/article/189970774.html
こんな所に隠されて社がありそれも相馬氏の戦勝記念の社だったのである、これでもわかるように相馬藩では相馬氏の戦(いくさ)のことを相馬藩政記でも事こまかに記しているでも津浪の被害のことは700人溺死で二行だけしか記されていなかった
だから歴史とは何かというとき支配者の歴史だとなる、それは全国規模でもそうである
一地域ですらそうなのだから日本の歴史とは支配者の歴史でありまた世界史でもそうである、アメリカは覇権国となったとき世界史はアメリカの歴史であり日本はただ悪者にされるだけだとなる、歴史とは勝者の歴史であり敗者の歴史ではないのである
ただこれからの歴史は民主主義となりプログなど誰でも発言してyoutubeでもテレビ放送もできなるようになった、その時郷土史でも興隆することになる
なぜなら郷土史は地元の人は読むにしても外部の人は余り読まない、関心かない、でも
誰でも発言できて表現できて放送できるようになることは庶民が権力を持ったことであり民主主義の促進にはなる
私がホームページからプログですでに20年とか発言している、それも今や一つの歴史ともなる
何か古い本を整理していると30年前とか買った本が多くもっと前のもありそれが何なのだろうとみる、そして著者がすでに死んでいるのも多いのである
この人も死んでいると本の著作者を見ると不思議になる、死んだ人を知るのは残された本しかない、あとは分らないのである、でもプログとかでも記録が残っていればそれも死者の残した物として参考になる、それで都築氏はプログにだけ書いて死んだのである
そのプログの記録も消していいとして著者が消したのである、するとその人の残した物は消えたともなる、これも問題だった、本だったら残り誰がが読んで参考にすることがあるそれができなくなったからである
郷土史というとき近くの自転車屋が死んだことはショックだった、そこは町に一軒しかなくなった自転車屋だったからである、それも郷土に懸命に生きた人として郷土史に刻んだ人だったとなる、それが死んでから余計に感じた、それで私は詩を献げたのである
郷土史に記される人だったとなった、相馬藩政記なら記されない、もちろん国史にも記されない、でも郷土史となると郷土に懸命に生きたものとして歴史を刻んだものとしてけ記されるとなったのである
民主主義とは平民の時代であり平民が主役になる時代である、だから庶民が歴史に記される、庶民が歴史を作るともなる時代である,そこに郷土史を郷土学の意義があるとなる
柳田国男の功績は文書だけに記されたものではない口碑で口伝いで庶民に伝えられたものを掘り起こして新たな民俗学を起こしたことである、時代によって新しい学問が起きる、脚光浴びるのも違ってくる、侍の時代は侍になるのが民主主義の時代は庶民がキ脚光をあびるとなる、ホイットマンが讃えたのは平民だった、労働する平民だったのである、ヨ−ロッパのように貴族はいなかったからである、それで皇帝も貴族もいないからリンカーンのように丸太小屋から歴史が始まったからそうなったのである
この時は大衆は存在しない、民衆が存在していたのである、それが讃えられたのである
アメリカは平民によって民衆によって作られた国なのである、でも今は格差が極端でありそれが失われたとなる
巨額な金をもった一部の人がいて支配する国になった、そこには建国時代の開拓者魂とかはなくなったのである
今年も終わりだが地震で散らかった本をまだ整理していない、障子も直していない、他でもまだ工事をしているとかあの地震の被害も大きいものだった、今年で一番印象に残ったのはあの地震だった
来年はどうなるか、いい予想はない、暗黒時代の継続になるとしている
近くの自転車屋が死んだことは年の暮でショックだった、その衝撃で新年を祝うとういこともそがれた
でも来年もがんばるほかない、コメントもできなかった、整理とか何か家事とかいろいろ忙しくて追われてできない
今まで書いたもの詩なども整理しようとしているができない、整理するだけで大変な作業になっている
では良いお年を・・・
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