2023年01月17日

精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション (なぜ殺害が起きたのか?)


精神障害者自身が生きる意味と世話する人のモチベーション

(なぜ殺害が起きたのか?)

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神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年に入所者19人が刺殺された事件の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)に死刑を言い渡した。
共同通信によると、植松被告は意思疎通が十分にできない障害者には人権がないなどと主張していた。
この事件は日本の犯罪史上最悪の、犠牲者が多数に上った殺人事件の1つとなった。凶悪事件が少ない国で、国民に衝撃を与えた。
これまで植松被告は毎日新聞の取材に対し、知的障害のある人は「生きる意味がない」とし、「社会のためにやらなければならなかった」などと述べていた。




精神障害者には生きる意味がないと施設に勤める人がそう言ったて十数人も殺害した
ここで問題になったのは精神障害者自身の問題と世話する人の問題があった

●精神障害者に生きる意味があるのか?

●精神障害者を世話することに何か意味があるのか?

これが問題になったのである、どうも発達障害者の兄弟でも兄弟の関係でも兄は障害者でも弟はそもそも世話したない、常に障害者の兄に厳しく接している
世間のことを理解できないくては困るとして従わせようとしている
相手が発達障害でも容赦がないのである、そこに相手が病気であり病気でも世間の常識を人間としての常識をわかってもらわないと困る、それで厳しく指導しているのである
それで弟は施設に入れたいのである、かかわりたくないとなっている
ここで関係してくるのが福祉関係の人たちなのである

でも発達障害者の人は施設に入りたくないとしている
そして母親は強い愛情があるので施設に入れたりするなら戦うと言っている
母親は強い母の愛がある、だからそう言っている、弟にはない、兄弟にはない、また姉妹でも母の愛を持つことできないのである
私はただ客観的な立場としてあり別にとっちにも組しないのである
精神障害者を責める弟にも兄弟にも組しないのである、ただ母のような強い愛は持つことはできない、だから病気になったが母が健在であるかぎり発達障害者でも施設に入れることはできない、だからそもそも精神障害者に人権があるのかどうかとか議論される
そんなものがないとして植松被告は殺害したのである

植松被告は重度の精神障害者と接してこんな人達は人間ではないと殺したのである
相手が人間でないとすれば相手の生きる意味も存在すら許されないとなる
そこに世話する者がいて甚大な労力がかけられるしコストもかかるからである
ただ母とかなれば母の愛がありそういう障害者でも母は愛しているし生きることに意味がある、それは何かむずかしい哲学でもない、ただ母の強い愛があり息子を生かしたいとなるからである
問題はそういう強い愛を兄弟でも姉妹でも持ちえないのである、その世話する労力も甚大になり人生するら犠牲になるからである、その相違は大きいのである

母は相手は人間なのだ、施設に入れることは反対する邪魔者として社会からとりのぞき施設に収容することはできないとしきりに言う、母にとって障害者でも息子であり人間として扱っているからである、でも兄弟でもそう扱いないからしきり文句言っている
つまり兄弟姉妹が精神障害者を世話することはなかなかしにくいということである
私は認知症にっなたは母でもあり姉を人間としてそれも健康な時と同じように扱い大事にしてたてることができたのは特別良くされたし家を作り家を支えた女性だったからであるだから苦しくても認知症になっても一家の主のようにしてたてていたのである
そういう立場にあったから継続してそうなったのである

でも相手がやはり認知症になりわからなくなっているのたからそれはおかしいとなった
だから私はうつ病になったのである、たいがい精神障害者が家族にいるとうつ病になるのである、いくら相手をたてるにしてもそうしていると自分自身がおかしくなってゆくのである、そんなふうにはならないと世話している弟は厳しくわかってもらないと困るとして対立する、だから精神障害者の兄はひどく嫌っているのである
そのことは私もわかった、発達障害者が接してはならない典型的な人だったのである

ともかく発達障害者でも精神障害者でもどう対処するかどう見るのかむずかしいと思った母が言うには相手は物でもないし犬畜生でもない人間だとしきりに言う、人間として扱わねばならないというのである、それは母としての強い愛をもっているからである
だから施設に入れることは強く反対しているし福祉関係の人とも戦うとしているのであるつまりここで問題になっているのは弟であり姉妹であれ兄弟であれ母の愛は持っていないやっかいものとして施設に入れた方がいいとしているのである
その相違が大きいのである、強い愛を持つ者と持たない者の差がここに大きく出ているのである

私にも姉とか母に愛があり介護ができた、というより特別60歳まで三食用意してくれたり世話してくれたからである、そのために強制されることもなく必死になって介護したのである、こんなに良くされた人はなかなかいないと思う、特殊の事情でそうなったのである、ただ家族が一人のできそこないというかいてめちゃくちゃになっていることもある
その息子は両親でも暴力をふるい一緒に住めなくなった、息子は本当に家族を崩壊させたのである、親もどうすることもなく家から脱出して住んだのである
これも悲劇だし一人のできそこないの息子を生んで育てたことにより何の報いもなかったとなる、それもあまりにひどいとみる
それで息子を殺した人もいたがここでは殺すこともできない、なんとかなだめようと必死になっているだけである
そういう家族もいるから子供をもってはずれたら恐怖にもなる

精神障害者とは何なのか、その人に人権があるのか、人間なのかともなりその答えはむずかしい、ただ母にとってはかけがえない人であり人間なのである
そうなるとその息子をただ社会の厄介者であり社会から抹殺すべきだともならない母にとってはかけがえないの愛する人間だからである

精神障害者に生きる意味があるのか、

また世話する意味があるのか

この二つの問いがある、現実にそれは精神障害者に対してみんな感じるのである
だから人間でもない精神障害者を次々に殺害する事件が起きたのである
母親にとっては息子が精神障害者でもやはりかわいい息子なのである
また兄弟でも姉妹でもそういう女性がいたからこの場合はみんなにはあてはまらないのである

ただ本当にこの問題はむずかしい、私は親が家族が認知症になっても病気の前と同じように接していた、だからうつ病にもなった、でも二年くらいで死んだので救われたともなるそのくらいなら苦しくてもなっていた
でも長くつづくとなると苦しいとなる、耐えられないともなる、とにかくこうして兄弟姉妹は世話しにくい、親子関係ならいろいろあっても愛情を注いでくれたし世話になったのだから苦しくても仕方がないとなる、また愛情は認知症の人でもわかるし通うのである
それで最後は感謝して死んだのである、認知症の場合は普通の人としてまた優秀な人として生きた人でありまた世話してくれた人だから粗末に扱いないのである
そこが生まれた時から発達障害者になって世話される人とは違っている
でも何か似ていることがあると見た、プライドがある、だから馬鹿にすると怒ることも似ていたのである、お前はは何もできないとか叱責すると怒るからである
そういう人は世話できないとなる、そこに認知症と違って介護でも世話でもむずかしいと見たのである

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