ケチな人とは付き合いたくない
(人の気持ちは必ず行為となって現れる)
「ベタニアの香油」で、
ベタニアという村の女が高価な香油をイエスに注
ぐ場面である。女の行為は無駄使いであるととが
められるが、イエスは女を賞賛した。
これもケチと関係していたイエスに対して高価な油を使うのは贅沢だとしたのである
イエスはすでに死を予感していただからこそ油を高価な油を使うのだと使う咎められたことを許さなかった
ケチということは常に問題にされるあいつはケチくさいやつだ
そんな奴とは付き合いたくない男女関係でもそういうことがある
その女性は80何歳かの男性と付き合い相手が病気なので介護のような事もしていたでも自分自身が病気になり何の心配もしてくれなかったとして別れることになった
その男性の一人娘がいたがその人もケチだとして非難していたその一人娘はすでに孫もいるような女性であるそれなりに金はあるみたいだでもその女性が来た時でもでも世話する女性がきた時金が奪われるのではないかと警戒していたしていた
その世話する年配の女性も常に金に困っている人だっただから金が欲しいということは確かである
でもそれは本当に金がないのだからそうなるのもやむをいないとなるよくわからないが確かに100万の軽トラを買ったり今度は4万のバックが必要だとか言って買うと言っている、だから金がそんなにはないとは言えないもちろんあまるほどはない、治療代にかかるからであるでも世話する女性からするとケチに見えたそして病気になり入院したのに何のお見舞いもなく心配もしてくれなかったそのことで切れてしまったずいぶん仲がいいと見ていたがケチの問題で切れたのである
ケチという問題は意外と深刻である貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるでもケチというとき別に金が持っている富裕層でもケチな人はいる金があるのだけどけれど金を有効に使わないそのことがケチなのである
また金だけではない何かちょっと人を援助することでもしないのである。その人は軽いものでも持ち上げることを嫌がっていた私のために何もしたくなかったのであるでも借金しているから金はは欲しかったでも本心は何もしたくなかったのである
そういうことは必ず行為となって現れる身振りとなっても現れるし表情にも現れるただそれも自分自身のカルマだったのであるそうされても仕方ない面が私にはあったのである
実際ケチといってもいろいろな面があるケチと節約は違う別に節約は悪いことではない、いろいろなものを電気でもも水でもエネルギーを節約することは今の時勢悪いとは言えないそうせざるを得ないからである
でもケチなのと節約は違ったケチとは何か出し惜しみする金があっても出さないまた何かできることがあってもしない
ケチとは金だけのことではないでも節約とは違う節約は悪いとはならないでもケチというときそれはその人間の性格とか人間性を問題にしているのであるケチとは本当は出せる金があっても出さない何かしてやれることがあってもしない簡単な事すらしないのである出し惜しみするのである
ただ貧乏で苦しんだ人はどうしてもケチになるそういう生活をしてきたから無駄な事には使いたくないそういう、それが習性とになっている。
私の母は大正生まれで貧乏でありその生い立ちも継母に育てられて不幸だった、何か働き詰めの一生だった、そこに何か楽しむということがなかったそのために花には興味もないから花を買ったりすると自分に対して怒っていたのである。そして庭に豆を植えていたのである。要するにこのように偏るのではなく豆も必要だが花も必要となることがいいのである、でも人間はどうしてもかたよるのである。
それもその生い立ちがそうさせたのである、継母に育てられたから親がいろいろと花のことなどを教える人だったらそうはならなかった
そこに不幸があったでもそのあとは高度成長時代を経験して豊かな生活を送ったでもその時も働き詰めであれ余裕がなく花などは無駄だと思っていたのであるただ金になることがしか追求しなかったのである
そして奇妙だったのは死ぬ頃に相当貯めた金を盗まれた、でも笑っていたのである、一円でも無駄にしなかった母が大金を盗まれてても笑っていたのである。何か認知症にもなっていた、でも金にあれほどこだわっていた人が大金を盗まれて笑っていたのにはおどろいたのである。おそらく死に間際になり欲が消失したのかもしれない
ただ人間は死ぬと金はどうでもよくなる、だから金があるときもっとよくしていたらなとあの世でくいているかもしれない、
あの世からは人はこの世にいる人にも何もできないし逆に死んだ人にも生きている人はなにもできなきなくる。
だからこそ生きているうちに良くしておけやれることはやってやれとなるのである。
こうして私は母にばかり育てられたら私もケチになっていたかもしれないもうひとりの母なる姉がいたのでそういうことにはならなかったのである姉はおおらかでありでありケチではない。でも他者には冷たいところがあった
金には厳しかったのである、一般的にみんな金金金の時代になったからそれもなかなか責めるということはできない
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか。妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」(ルカ10:38〜42口語訳)
なぜそういわれたのか、イエスと共にありそして話を聞くことの方が大事だったのであるなぜならその機会はもう二度とないことになったからである家事はいつでもできるでもイエスの話を聞くことは二度とできないことだったからである
それはただ家事に追われ仕事に追われ花に価値もない金にもならないどうして無駄だとすることと似ている
この世の自然の美は色々あるそれをそれを感じないそれは動物と同じである、人間はやはり動物とは違って神の作られたその美を見て感心したたえることが人間なのであるガツガツと食うだけの人は人間ではない動物になってしまうのである
ただケチというとき金だけの問題ではない相手に対して豪華なものを贈るということでもないたとえ粗末なものを送っても何か相手にしてやりたいと言う気持ちがあればそれは粗末なものでも嬉しいとなるでもそもそも相手に何もしたくないという気持ちになっていればその与えるものに何か心がこもらないのである私の私が困っているとき弁当を持ってきたがそれもいやいや持ってきた普通のコンビニの弁当であるあとはすぐ帰ってゆくだけだった
まあ仕方がないから来たというだけである何か持って行かなければならないと思い安い弁当をただ持ってきただけであるそこには何ら心がこもっていない何も持って来たくなかったのである何も贅沢なものを要求しているのではないそもそもが何もしてやりたくなかったのである心があれは手料理などをしたのものを持ってくればそれは違ったものになる
母の与える料理はたとえいいものではないにしろ母の愛情がこもっているだから外食するのとは違ったものなのである貧しくても精一杯工夫して子供に与えるそこには愛がこもっているから違っているのである
とにかく人間には常に心が関係してくるそれはやはり介護とか病気になった時苦しい時感じやすくなるのであるだから本当に相手に対して愛もないし情もなければ何もしたくない何も与えたくないただしょうがないから普通のお弁当でも買って与えるあとは何もしたくないということだったのである
脉(みゃく)をとる看護婦(かんごふ)の手の、
あたたかき日あり、
つめたく堅(かた)き日もあり
病気の時は人の微妙な心を感じるのである
自分の場合は看護師に虐待されたようなことがあったからそのことが忘れられないのである。今看護師はそもそもみんな老人を嫌っている。多すぎるからである、戦前は若人が肺病になった
だから悲惨であり同情されたということがあった。今老人が病気になっても数が多すぎてかえって早く死でくれとかなる
そういう気持ちは必ず行為となって現実化するから怖いのである。
とにかくケチなの人が家は何か事業することで成功するものだろうか相手の為に客のために与えるにしても本当は与えたくないわずかのものを与えてそれより多くのものをもらいたいということになるそういう気持ちで事業を成功するものなのだろうかもちろんそれ相応の利益を得ることはあたり前である
でもそこにやはり人間には心が関係していて心が現れてくる
こういうことはやはり相手が病気だったり弱くなったり苦しい時より感じやすくなるのであるこの人は私のためには何もしてやりたくないただ金だけは欲しいそういうことが表情にも行為にも現れるのであるただ自分の場合はそうされても仕方がないという面があっただから批判ばかりもできないということはあるただケチだということは常に人間関係で問題にされることなのである。それでやがてそういうケチな人は避けられる傾向がある
ただそこで間違えやすいのはケチと節約は違うということである節約は悪いことではないケチというときその人間自体が問題にされているだからケチというのことが常に問題になるのである
ケチというとき金があるとかないとかだけではない、気持ちの問題にもなる、金があってもケチな人はいるからだ
でも金でも余裕がないとケチになる、それは自分でもそうだったからである、
人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。
旧約聖書に、夫に先立たれた「やもめ」や親を失った「孤児」の保護が命じられいることは、イスラエル社会の中で、この人たちが不安定な生活基盤で生きていたことを物語っています。「みなし子・やもめ・寄留の外国人」に対する神の顧(かえり)みの愛をいいあらわす旧約のことばがあります。
イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました
この比較で貧しい人でもわずかに与えても多く与えたことになるその人はケチではないのであるでも金持ちが与える金が多いとしてもそれは持っている金からすれば少ないともなる
なけなしの金を与えた人の方が多く与えたのである
だからケチというとき金持ちでもケチな人はいるのである貧しい人でもケチでない人はいる
ケチということは必ずしも金の量では測れないのである
ただ現実の生活ではどうしても余裕がないとケチになることは仕方がないともなる、
でも人はケチな人は付き合いたくない金があってもケチな人は付き合いたくないそれは確かである
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