感銘した漢詩ー天華が入っていた
(人間は死んだ後からこの世を見ると見えるものがある)
辞謝する人間情交の親しみ 荼毘の煙散じて余燼なし
羽衣飛錫両ながら悶々 袖を払う清風万里長に香る
劫灰は燃え尽くして天真に入る 身後一点の塵を残さず
月明に乗得て故山に還る 天華徐に翻え彩雲の間
我が肉体は荼毘にふされ煙となって消え去った
ただ霊魂のみ月明に乗じて彩雲の輝く故山に還った
藤原相之助の漢詩である、秋田出身で仙台で死んだジャーナリストだった。
これが私の意とするところを表していたので感銘した
俳号でも天華としたからである、花をテーマにして詩を書いていることもある
人間の一生をふりかえるとこの詩は味わい深いものとなる。
なぜなかなか詩とかいろいろ鑑賞できないのかというとやはり人生がこういうものだったということを実感できるのが老人になってからになるからそうなる
とても若い時は理解できないのである
人間が死ぬということはわかっていても実感として身近になることは老人にならないとわからない、でも今なら老人というとき70過ぎてからになる、60代はまだまだ老人の境遇になりにくいかもしれない、人間が死ぬということがイメージしていても実感できないのである
辞謝するとは辞退するということである。人間の情交はいいようでそうでもない
人間の交わりは俗人の交わりは危険でもある、常に利が関係しているからである
一般的に金の切れ目が縁の切れ目になる、本当の友とかこの世にいるのかとなる
人間とはそれだけ利を求め利しかないのである。
だから宗教とはもともとこの世から脱するために出家したりしたのである
出世とは世から出ることだったのだがそれが俗化してまさにこの世で栄誉栄華を得る出世になったのである
カルト教団などはすべて俗人であり大衆化したのもであり宗教など一切ない
ただ利を求めて御利益を求めて権力栄華を求めているだけである
だから利を得られなくなれば雲霧消散する、一見あれだけの人間が集まっているのだからと人は何なのだろうと見る、でももうまもなく雲霧消散して一時的なものとして消えるのである、つまり金の切れ目が縁の切れ目なのである。利を求めて集まった者は利がなくなれば離散してしまうのである。
むしろ俗なるものの交わりは危険である。相手が利しか求めていないとしたらその真実が現れる時がくる、利にならないとして離れてしまうのである
この世の人の交わりははかない、そこに真実の交わりはない、現代だと大衆の交わりでありそこにもう一個の人間はいないのである。そしてみんな雲霧消散してゆくのである
良く義兄弟の契りだとかなんだとかいうけどそれも嘘なのである
なんかわからなかったけど盛んにそのことを交通事故で死んだ兄を雇った雇い主が盛んに言っていた、でも死んで保険金が入るとなりその保険金に目をつけた
身よりがないとなり保険金の受取人になろうとしたのである
つまり大きな金が入るとなると人間は豹変する。人間の交わり自体がこうして危険なものなのである、真義による交わりなどほとんどないのである、この辺では原発事故の後補償金を得ることが目的になり分断したからである
ただ利をもって合い利をもって別れるだけなのである
会社だって利をもって合いそして去るというだけにもなる、人間は利から離れることはできない
そして死ぬと荼毘にふされて煙となりて消失する
羽衣飛錫とは羽衣とは飛ぶ鳥のことであり飛錫とは行脚するとき使う錫である
天を飛び地を旅することになぞらえている。
そして煙となり灰となって消える
身後一点の塵を残さず
これだ意外と人間にはできない、死んだ何も残らないのだから同じではないかとなるが
そうでもない、何か私の土地がわずかであるがとられた、そのことが頭に残っている
それにかかわった人達はみんな死んだ。でもそのことが嫌なものとして浮かんでくる
ただ人間は生きている時みんなこの世に執着する、その一つが土地なのである
そもそも人間の争そいでは多いのは土地争いである
なぜそんなわずかの土地にこだわっていたのか?それが良くわからない、その家は地元で評判が悪い家だったのである。
つまり死んでもそういう人が浮かんできて不快になるのである
人間は死んで終わらないのである、死んでみればなぜそんなわずかの土地にこだわっていたのかとか金にこだわっていたのかとなる
どうせみんな死ぬのだから死んだらもうこの世の土地など関係なくなる
現実にその人の家は空家になって広い庭も今や利用する人もいないのである
これだけでない人間は生きている時はみんなわずかの利でもこだわる。
それから離脱できないのである、死んで初めて離脱できるのである
墓を残してもそこが俺の土地だとか俺の墓だとかなども言えなくなるからである
死んだら何も所有できないのである
要するに身後一点の塵を残さず・・・こうして死ぬのもむずかしいとなる
生きている限り人間の欲はつづくし消えないからである
私の家族でも金にはこだわっていた、そして大金を残してもそれが盗まれたりした
まだ一人は認知症になり銀行から金を下ろすことができなくなったことには驚いた
もし一億円あったとしても認知症になったら自分の金でなくなるのである
これも驚きだった、金でも自分で自由に使えなくなったのである
不思議なのは死んでからこの世のことを見たらどうなるのか、あんなに金にこだわっていたけど死んでしまえばそんなものいらなかったとなる
死者はもう金も土地でも何もいらないからである、でも生きていたときでもしきりに何にもいらないと言っていた。何か消費する力もなくなっていたとなる
でも金にはやはり死ぬまでこだわる、なぜそんなに金があったのに有効に使わなっかったのかとなる、死んでからそんな金があったのに驚いたのである
私は節約して旅をしていた、だから安宿を探すのに苦労していた
もしもっと金をもらえばそういうことはしなくて良かったとなる
ただ親は私に十分以上のことをしてくれたからそういうことで恨んだりはしない
でも死んだら金も使えなくなるから有効なことに使っておけとはなる
いづれにしろ死んでもそこに何か嫌なことが浮かばない人はいい、
身後一点の塵を残さず
こうなる人はいい、でも死んでも何かあんな人がかえって消えた方が良かったとかなるのも多いのである。死んで何もかも消える訳ではないのである
死んで残したものは何なのかとなる、金を残してもそれが生きている時に活かさなければ虚しいとなる。宝の持ち腐れで終わる。
この世で本当に真義であれ愛であり利を関係しない交わりはほとんどないのである
だから人との交わりで問題が起きるし危険にもなる
友情などでも利が関係してくるからそれもほとんどないのである
恋愛でも男女の関係でもそうである。そこに欲が関係していて結局はかなく終わる
そして離婚が三分の一もあることでも男女の交わりもはかないとなる
つまりこの世では永続的な人の交わりなどないのである
それは神の国天の国にありこの世にはありえないのである
だから絶えず裏切りだとかありそれが日常化している。それがこの世を生きることだともなる、それは変わりない人間の実相なのである
この漢詩は地の記録を歩くー盛岡。山陽道編(松本健一)にでていた
故山に還ったというとき日本では万葉集時代から死者は山に葬り眠るとされていたのである。
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