晩秋霊山ー漢詩もどきー(相馬藩の姓の系統)
晩秋霊山
晩秋古跡訪
南朝滅霊山
木葉風吹舞
巌黒々根露
只野一族住
落武者末裔
歴程語共老
相馬氏藩では主に三つの姓の系統がある、めれは鎌倉時代から始まっている
古いのは義経に従った佐藤氏であり福島市の医王寺にその墓がある
塩手山に二軒隣り合ってある、それは明らかに佐藤氏系統でありその一族が中村に勢力を持った。それで相馬氏はその佐藤氏と争うことになった。
磯部に佐藤館があり後に今ある道の駅の所に鬼越館がありそこに住んだのである
佐藤氏系統と次にやはり鎌倉から来た岩松氏は鹿島区を中心にして治めた
でも四天王という一緒に鎌倉から来た臣下の侍に無惨に殺されたのである
稚児まで殺されたのでそのことは語りつづけられることになったのである
実際にその殺した臣下の末裔は生きているからである
岩松という姓は相馬藩にはないのである、それが歴史の事実を示している
伝説には架空のこともあるが事実に基づいている、
その後相馬氏が進出して支配した、その姓は多様だからなかなかわかりにくいのである
ただ野馬追いに出る武者の家は相馬氏の系統が大半である
姓と言う時昔は一族意識が強い、だからある村の姓が同じだということがある
葛尾村は松本姓が大半でありこれは信州から移って来た人達であり葛尾村の名自体がそこにもある
また常磐線の末続駅を下りたら墓地は8割が新妻姓だったのである
だから新妻一族が住んだ場所だと明確にわかるのである
ともかく南相馬氏鹿島区となると只野の姓が50軒くらいある、それは郡山の多田野村から出た姓であり霊山で南朝が北朝と争い落ち延びた侍が先祖なのである
どういう訳か郡山市は福島県の経済の中心である、東京にも近く会津にも通じているからである。だからトイレを直したのは郡山市の会社だったとかなる
今は仕事も広域化している、いわき市の人が瓦を直してユニットバスは仙台市の会社だったのである、常磐高速道や福島中央道もできたので遠くから仕事で来るとなったのである
桧枝岐だと秘境になっていた、そこの姓は三つくらいしかない、そこに星がある
橘などもあり後から一族を受けいれた、ということは個々人が移動しているのではない
一族が住む場所を求めて移住してきたのである
ただ相馬氏の場合は一族といっても大きな氏族だから相馬藩自体を支配するようになったのである
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