原町区上高平の春
(相馬藩の越中などからの移民などの歴史)
上高平の春
梢の高く風にそよぎ揺れ
芽吹く木々かな
鳥飛び移り若草の緑うるわし
野馬追の馬飼う牧や
越中などの移民のここを拓くかな
南無阿弥陀仏の墓ありて
その苦労を偲びぬ
上高平も元は森だった。でもいつそこが開かれたかそれが問題である。必ず越中からなどの移民が入ってきた。
その前に相馬市が入ってきて支配した。なぜなら高平にも野馬追に出ている家があるからだ。野馬追に出る家は相馬市につながる人たちである
でもの移民など相馬氏系統ではない
越中からの移民は相馬藩内のいろいろな地域に入り込んだ。それは南無阿弥陀仏の墓があるからわかるのである
三分の一は浄土真宗の墓であり戒名は無いからである
相馬藩内でもいろいろな地域があり多様である
本来はそうして多様な地域がありそこに暮らしがあることが良い
農業中心の世界だったら社会だったらそうなっていた
なぜなら土地がなければ農業はできないからである
そもそも越中などの移民が入ってきたのは天明の飢饉があり三分の一が荒地となったためである
そのために相馬藩内では人を呼ぶことに励んだのある
相馬相馬と草木もなびく
この民謡はそのために作られたコマーシャルソングでもあった
この民謡は人を呼ぶために作られた。その時農業社会だったから土地を得られるということで移民が入ってきたのである
その移民たちは土地としては悪い土地にはいり開墾したのである
だから苦労したのである。加賀泣きとか言葉として残っているのはそれだけこの土地に来て苦労したからである
でも今になると荒地が一杯あるけどそれは放置されたままである
それは今は農業社会ではないからである。
この辺の経済は原発でも成り立っていた。農民は一割にも満たないのである。それは全国的にそうであり膨大な耕作放棄地が日本にはある。でもその土地を耕作しようとする人はいなくなったのである。
戦後でも焼け野原になった日本で引揚者は戦地から帰ってきた会議その人たちも仕事がなく土地を見つけて開墾したのである
でも厳しくて半分くらいは撤退した
その後高度成長があったのは工業化したからである
電気製品を海外に売って高度成長したのである
戦前は農業が中心であり生糸産業は中心でありそれは農業でもあった。それが時代が変わると産業も変わり仕事も変わる
それが人間の歴史でもあった。
相馬藩の歴史として越中などからの移民の歴史は大きなものになる。その人たちの姓の一群があり子孫が生きているののである。
相馬藩内の人の移動について
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