春の日大工とともに家を直す
(仕事は利益だけを得るものではない、道徳なき経済と化して荒廃−原発事故から12年後)
地元の大工が我が家を直す。
その往年の技を駆使して
その働くことに喜びあり
思案し図り組み立て成りぬ
里に芬々と梅匂う季
土地の大工の老いて示す技
天職に就きし男の良しかな
老いしもその技の衰えざれ
ただその体力の弱りゆくはとめがたし
我も共にてテコとなり働きぬ
温和なる春の日に共に働くも良し
百才の間に居てなお我の生きなむ
人間の仕事はなかなかわかりにくい。現代は社会があまりにも複雑化して他人の仕事が分からなくなった。ただ仕事でも自分がしなくても他人の仕事でも多少関わり見ているとじかに見ているとわかることがある。
大工さんの仕事は直に見ていて私自身も手伝った。そのことでともにい家を直しているという感覚になった。
家を作ることはやはり大工さんと関わる。ほかのものは例えばこの辺でも梨とかりんごを作っている。それは結構うまいものである。でもその果物でも作るということに関わることはできない。
それは米でも野菜でも作ることに関わることはできない。
だから意外と田舎に住んでいても農業のことがわからないのである。ただ農業している人のことを支援してわかった
それは苦労ばかりであったがいかに農業というのは大変なものかを直接聞いてわかった。
だから必ずしも直接仕事をしなくても聞いたりすればある程度はわかる。でも仕事は直接自分で関わり働かない限り理解できないものなのである。
人間は働くこと仕事することそれは金を得るためだけではない
働くこと仕事することによって人間自体が作られるのである
特に農業は自然と関わるから自然と体で通じ合うことなのである。それで私のようにただ外から見ているだけで直接土に触れるわけでもない鑑賞しているだけだから本当の自然というのは何かを会得できないのである
つまり消費しているだけの人間は何かを本当に理解することができない。自ら生産に関わらない限り何か本質的なことが理解できないのである。
一番いいのは自分で田畑を持ちそれをその実りを味わう時本当の豊かさを知るのである
ただ消費だけしていれば自然のことも深く知ることはできない。働くということはそれを売って金にするということではない
人間は働いてこそ人格も形成される。ただ金のために利益のために働くということではないのである。それが資本主義社会でわ常に利益追求が優先される。でももともと資本主義はウェーバーのようにキリスト教から起こった、修道院での労働から起こったというのもそうである。
その働く動機というのは宗教的な動機であり他者に尽くすということにあったのである。だから働くということは必ずしも利益を得る金のためではなかったのである。
何か今日東日本震災から12年過ぎてテレビで報道していた。
牛を飼う人が浪江でみんなやめたのに飼い続けている。それは売ることもできないがら無駄だということにもなる
でも人間には働く意味がないと生きていけない。牛も生き物であり人間の仲間であるから捨てられないとして一か月30万のエサ代はかかっても飼っている。応援する人もあってやってきたのである
そんなことしているのは何のためなのか?金を得るためでもないかえって金がかかっているのである。
ただそこで牛を飼う牛と共に生きる牛を捨てることができないそのために飼っている。
このようなことは原発事故で他でも起きている。
漁師は原発事故以後魚をとることができなくなった
でも漁師は特に船主は別に働かなくても豊かな生活ができていたのである。
補償金が事故前も事故後も充分にもらっていたからである。
でも港にいて魚もとらない漁師はもう漁師でもない
一体何のためにいるのかという気分になった疑問になった。
つまり何のために港に居るのか何のために生きているのか何のために存在しているのかそれがわからなくなったのである。
別に生活には困らないのである。でもそこで生きる意味が見いだせなくなったのである。だから人間は利益を求めて常に働いているように見えても働くということはそこに意味があり社会的価値がありそのためにも働いているのである
だから牛とともに働くということに意味があった。だからそれで金にもならないのに金がかかっても依然として牛を飼って世話しているのである
ただそれはもう自分ひとりではできない。みんなの援助がないとできないのである
それで生業を返せとか裁判になった。その生業とは何なのか?
それは生きる意味を価値を奪われたのでそういうようになったのせある。でもそういう生業とは何かはっきりしない、生きるためには金が必要であり補償金をもらことが大事だとなっていた。
それは別にどこでもこうした矛盾をかかえて生活している
それがこの辺では極端な現象として現実化したのである。
とにかく人間はその人なりの天職について働いている人は生き生きしている。
そこで問題なのは退職したりすると仕事もなく何もすることなく社会的にも無用となり生きる意味も価値も見え出さなくなることである。
たとえ金にならなくても何か社会であれ有意義なことをしたい。
価値あることをしたいとなる。それが意外と切実なものになるのである。利益と金を追求するのはやむを得ない。でも人間は本当はそれだけのために働いているのではないのである。
人間の価値は金だけでは測れない。その人が何ができるのか。何を与えることができるのか。それが問題なのである。
金を与えただけでわ価値あるとはなりえない。大工さんだったら家を作る。家を与える。農民だったら食料をつくり与える。何かがあって与えるものはあって価値ある人間となるのである。
何も与えない人間は価値がないとなる。たとえ別に金があって働かなくてもいいとしてもそれでいいとはならない。
その人には生きる価値も意味もなるからである。
人間が生きるとは意味と価値を追求しているからである
それがなくなったとき生きていても無意味だとなり死んだ方がいいともなる。高齢化社会で老人は死ねというとき社会的に価値が意味が認められない、それが数が膨大だから問題になっている
それが現代の時代の大問題なのである。道徳なき経済は犯罪である、まさに現代の資本主義グローバル経済は犯罪なのである。
そこで常に陰謀論になるのはそのためなのである、働かないでも極一部の人たちに金が集まるシステムにもなっているからである。
直土(ひたつち))に我の心のおのずから養われつつ静けくありけり(開墾ー吉植庄亭)
天地は君と親とのめくみにて身をやすらわんコを報へや(二宮尊徳)
農業から会得するものがあった、それが現代は無視されて科学工業社会になったとき原発事故にもなり故郷にも住めなくなったのである。自然とも分離して道徳も失われたとなる。
タグ:リホーム 働く意味 原発事故から12年 二宮尊徳の教え 天地から離れた人間 失われた生業 生産と消費の分離 天職に生きる 農業社会から科学工業社会へ 道徳なき経済の荒廃 高齢化社会の労働 意味と価値を求める人間 春の日の労働
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