最後に人間は自らに問う
(自分の人生は何だったのだろうと、、、庶民でも誰でも)
また大工さんが来て庭の手入れとか掃除とかしてくれた。それで手間賃を与えた。それで満足して終わりだと思ったが
意外と俺は何のために生きてきたのかと問いかける。
普通は現場で働く人は肉体系はそんなことを考えないと思った。なぜならなぜ稼ぐことが第一でありそんなことを考えるのは知識人だと思っていた。
私は知識を追求してきた知識人だから哲学というのを一つの追求テーマになる。そういう本も読んできた。
でもその人は現場で働く人であり本などほとんど読んでいないのである。でも人間というのは最後になって老人になって私は何で生きてきたのだろうと問うのである。それは知識人だけのことではないのである。
私の姉は最後まで従軍看護婦としてマレーシアのシンガポールの向かいのジョホールバルで働き辛酸をなめた
それは20代で青春の盛りでありその4年間を戦場でで従軍看護婦として必死で働いたから死ぬまで忘れることは無かった。
死ぬ直前までもその従軍看護婦として働いたことを言い続けうなされて死んだ。それだけその経験はあまりにも強烈でありそれも青春の真っ盛りでそうなったから一生忘れることができなかったのである。
その後も最後にしきりに家を建てたことを自慢していた。
柱のことでもこの柱は同級生のキコリが自らその木材を取って使ったものだと自慢していたのである。
姉は父親が死んでから父親代わりになったのである。男勝りであり気が強くて家を支えたのである。母は繊細な人であり体も細身であり一人ではとても家を守れなかった。ただ母もこの家のために尽くしたのである。だから私も働いた認めてくれと最後はやはり言っていたのである。
私はそのことは言われることもなく体でわかっているから介護に尽くしたのである。だから別に知識人でなくても人間は最後に自らに問う。なんで生きてきたのか。何のために生きてきたのか。自分の人生とは何であったのかと自らに東洋になるとうようになる。
だからこれは別に肉体労働者だからとかなんか職業が違っているからではない。人間は最後に自らにその生きてきたことの意味を問うのである。
それで原発事故で漁師は特に船主などは事故前でも事故後でも充分なをもらっていた。だから生活に対する不安もなく暮らしていたのである。
でもその漁師でもなぜ私は港にいるのだろうと自らに問うていたのである。で生活には困らない。でも何のためにここにいて港にいるのだろうとなるなったのである。
おそらく別に原発事故がなくて漁師をしていたら魚をとり魚を売るそれで地域のためにもみんなのためにも働いているとなっていたから何のために働いているのかなどあまり考えることもなかっただろうと思う。
人間とはやはり人生の最後に自らの人生の意味を問う存在だということである。でも実際はガテン系というか肉体労働者だとそんなにそんなこと考えないだろう。ただ家族を養うためとか何か立派な家を建てるとかいい車を買うとか自分を自慢したいとか働く動機となっているなっていた。
でも確かに金を稼ぐということが第一目標である。でもそれほど最後に金にこだわらないということにもなる。もちろん今の時代老後のお金で苦しんでる人が多いのだから金は必要である
でも必ずその反面人は最後に自らの人生の意義を問うのである。それはいろいろ哲学があり哲学者がいてもそれが一見ガテン系とか肉体労働者とか庶民でも関係ないようでも人間である限りやはり人生の意味を問うのである
でも大概人間の価値は金で測られる。大工さんでも職人でも働いた分の金おいてそれで終わる。それ以上のものを得られることは無い。でも実は金だけではない自らの仕事に対して価値与えてもらいたいのである。だから人間の価値はすべて金ではかり終わるとはならない。
でわ金で測れない価値とは何なのか。それが実際は最後に問われる問題なのである。その仕事の人生の意味は何であったのかを問うのである。でもそれは金で計れないものだから簡単に言えないのである。金のように測れないとなるのである。でも最後にその意味を求めるのである。
しかし人は最初にその働く意味を価値を求めて働くべきなのだがそうしない。まず金を求めて働くのである働かされるのである。
だから最後になりその働く意味をとうことになる。
ただ金に追われて働くだけだともなってしまうのである。
戦争にしても三百万人も死んだのに何で戦争したのかもわからなくなっていることでもそうである。
いずれにしろ最後にどんな人でも別に知識人でなくても一般庶民でもみんなは自分の人生は価値ある意味あるものだったとしたいのである。それは別に特別な人のことではない。
知識人だけのことではない。ここは特殊な事情で原発事情などでふるさと消失したことなどで余計に自分の人生はなんだったのだろうと振り返ることになったのかもしれない。
でもあらゆる人が人生の最後にわ自分の人生は一体なんだったのだろうと自らに問う。それはなかなか一概には言えない。社会の中での価値があり地域の中での価値があり家族の中で価値があり個々人の中で価値がありとあり価値というのは多様だからである。
そして価値は変化するからである。でもその人は家族から一人離れて離婚して暮らすようになってそんなことを考えるようになったのかもしれない。つまり津波や原発事故で家を失い家族も離散して離婚もして一人取り残されてそうなったのかもしれない。
それはこの辺の特殊な事情でそうなった。ふるさとでも働き尽くしてきたのにふるさとがもう元の故郷に戻らないということもある。だから今度はその人の価値は大工とか庭師とかいろいろしてきたことに価値があるとなる。その技を若い時から磨いてきてそれが最後にも役立っているということである。
だから人間は若い時から価値あることをしていないと積み重ねていないと最後に私の人生はなんであったのだろう問う時その意味と価値を見え出せないということもある。
でも現実はただ金を求めて日々の生活のために追われそんな意味などを問わないのである
人間は逆になっているのである。若き日に神を求めよ神を知れなのだが実際は若き日に飲めや歌やであり享楽に走りまた欲望に走り結婚して家族を持てばその家族のためにとにかく稼がねばならないとなり意味とか価値と関係なく働くのが普通なのである
でもそうしても最後に俺の人生は何だったのだろうとどんな人でも別に哲学の本など一冊も読まなくてもそうなのである。
それは私の家族でも本など読んでいないのである。でも私の人生はなんだったのか私は働いた私は価値ある存在だった私の価値を認めて欲しいと切に訴えるのである。だから人間というのは誰でも価値と意味を求める存在なのである。
それは学問があるとか知識人とかとか関係ないのである。
ニーチェなど庶民と関係ないようであった。
もろもろの価値の根源は人間である、人間がおのれを維持するために、それらの価値を諸事物に付与したのである、人間が先でそれが諸事物に、意義、人間的意義を創り与えたのだ、それ故に彼みずからを「人間」すなわち「評価する者」と呼ぶのである
自然でも多様である。自然は物資として資材としても人間に活用される。もうひとつの側面として精神的なものとして人間が価値づける。それは文系の仕事になる。また美としての価値があり芸術になる。エデンの園であらゆるものに名前を付けることが最初の仕事だったというのもそうである。名づけることは意味と価値を与えることだったからである。
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