春から夏へ(雲雀、鶯、タンポポ、菖蒲)
今日も見ゆ鉢に菖蒲や貧の家
白波の寄せてひびくや朝雲雀
六号線喫茶店あり八重桜
朝歩む人に鶯鳴きにけり
今日も見ゆ鉢に菖蒲や貧の家
たちまちにタンポポの綿毛飛び散りて雲雀鳴く声朝に響きぬ
朝に海の方に言ったら白波が寄せて響いていた。
4月も終わりになりすでに夏になったようである。
たんぽぽの綿毛が満ちて散ってゆく。一斉にたんぽぽが咲いたがそれもちった。季節が移ってゆく。今度は連休であり夏になる。
すでに藤の花は咲き始めている。
川の土手を歩く人がいる。そこにウグイスがなくそれは何も変わった風景ではないが歩いているということで鶯のが歩く人で響くのである。
何か現在は歩くということが珍しいのである。みんな車であり車社会だから歩くということが珍しくなったのである。
でも歩くということは自然と一体化するのである。それが車となった時自然と一体化しないものとなったのである。
だから江戸時代の浮世絵などで歩いて旅している人を見るとそれは風景の中に溶け込んでいるのである。人間が歩いているとそれは絵になり不死にもなるのである
それだけ人間は今機械に左右されて本来の人間の姿を失ってしまったのである。ただ人間はどうしても便利なことを追求してきた。車なら風だろうが雨だろうは自然に左右されない。
それだけ便利なものだから手放せないようになるのである。
私は毎日朝に川の土手の道を自転車で走っている。でも私自身が歩いていないのである。それで山形市に行って歩いて足を悪く悪くした。
このように人間は今歩くことをしていないし歩く姿も見ない。街でも歩く人も見かけない。それで通りはシャッターとうりになったのである。何かそれが街を寂れさせたのである。
車だと駐車場もないし不便でありどうしても郊外のイオンとか行くようになるからである。それも車社会がそうさせたのである。
毎日市営住宅に入っている人の部屋を見ている。その人のことを知っているからである。そこにわずかな庭があり鉢に菖蒲がさいている。
それを毎日見ている。そこに住む女性は老人は私の家に常に来ているからである。
もしそうでなければその市営住宅に住んでいる人の女性のことなど関心がなかったろう。でも親しくしているからその住んでいる住宅でも見る目が違ったものになる。
でも知らなければ誰が住んでいるかも知らないし関心もないのであう。田舎でもそうなってしまうのである。
ともかく桜も散って夏になる、その季節の変化も早い。昨日は仙台市に行ってきた。そのことは次に書くことになる。
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