芙蓉、、鬼百合、カンナ、老鶯など
(空家の庭の不思議)
これは赤モズだった
大石に鬼百合芙蓉映える庭
家数軒大石一つ芙蓉かな
夏菊のカンナに映える六号線
隠れ見ゆ木陰に涼し小鳥かな
空家にそ老鶯鳴くや残る庭
立話海風涼し夕べかな
芙蓉と大石
どっしりと大石は黙し動かない
その前に広々とした野が開けている
すずしい風か海から吹いて来る
一本の木陰があり
ゆったりと芙蓉が咲いている
こういう風景の中で人は安らぐ
そこに人影も見えず
一本の木は静かに深く根ずき
その木は静かに大地に根ずく
白鷺は夏の日にまぶしく映えている
今日も楚々としてその細い脚で餌を漁り
この地を乱すことはない
こうしてのどかな田舎に平和がある
車もたまにしか通らない
夏の雲が白く湧きあがり
鬼百合も熱く咲く
真夏の灼熱の太陽が燃えつようやく沈む
Fuyo and one big stone
The big stone is silent and stillnes
A spacious field opens up in front of it.
A cool breeze is blowing from the sea.
There is the shade of a tree
and a big hibiscus rose is blooming.
In this kind of scenery, people feel at ease.
No manl to be seen there
one tree is quiet and deeply rooted.
Here, one tree and one big stone have taken
your own place and are at ease
The egrets are dazzling in the summer sun
Today, still neatly scavenging for food with its slender legs
And never disturb this land
There is peace in this tranquil countryside
Cars pass by only once in a while
Summer clouds rise up white
The wild tiger lilies bloom with strong passion
The scorching sun of midsummer burns and finally sets
今日も暑かった、鬼百合がが咲く時、真夏になってくる。花も季節を告げるのである。ただ、なぜ芙蓉がが初秋になっているのか?
何かそこには理由がある。 この季語は日本独特のものであり長い年月の間で作られてきた日本の文化なのである。だから季語に通じなければ俳句は作れない。すると四季が明確でない外国ではなかなか俳句というのは作れないし、理解できないのである。
鬼百合はは英語ではtiger lilieになっている。日本語の方がふさわしい。英語の機械翻訳は本当に優れている。う英語の先生はいらなくなるとまでなる。それでも多少直したのである。だからまだまだ機械翻訳だけで人間のようにはは作れないともなる。でも9割ぐらいは機械翻訳で充分なのである。韻を踏むとんればとても機械翻訳では無理になる。
ともかく近くを自転車で回る。そして何気ないところに詩的なものを発見する。 その田舎の風景があって心やすらぐのである。ただ正直、今の時代スーパーとかない所に住むのはたいへんである。買い物すらまともにできない。一人暮らしでみんな買って暮らしているからとてもスーパーのないところになど住めない。 だから田舎といっても最低で、スーパーがないところにはもはや住めない。ここは隣の市まで8キロぐらいで行ける。5万の都市があるからそれなりの用は足せる。自転車でも行けるからいいただ、暑くなったら熱中症になるから行けない夕方涼しくなるから原町まで行った。
ともかく近くの空き家の庭はは不思議である。その庭の石造りが良くできているのである。でもその家は住みたくない。民家でも古民家でもないし何か貧弱なのである。その庭は立派だから利用できればいいと思うがまだ近くに住んでいる人が持ち主であり勝手にはできないのである。でも今の問題はこの空き家空き家が多くなりすぎたことなのである。その利用をどうするかということが課題になっている。あの庭に気づいたのはその家が空き家となったからである。空き家となるとかってに入ることが出来るからである。
そこに老鶯が鳴いて響ているのも不思議となる、この老鶯と夏鶯は同じでも相当に違った感じになる。
ともかくくまなく田舎を自転車で回っている。でも未だに発見されていない道があり場所がある。それは意外と近くの場合がある。
だから人間っていうのは本当に灯台下暗しなのである。遠くへ遠くへと出て行くのだが、近くでもいい場所があり見逃している。単純な毎日見ている風景でもそれを感じれば深く感じれば得難い物なので。
なぜなら、都会にはそういう風景が無いからである。都会で心が和むということは難しい。その田舎でも。風景画いいとしてもそこに住む人が良いとはならない。
私の場合はそこに人がいないという時、いいのである。だから神はその暮らしを隠したというときまさにそうなのである。大都会のようにビルがむき出しになる人が混雑してぎゅうぎゅうづめの電車で通うことなど地獄にもなってしまう。だから、なぜそんなところに人間が住めるのかという疑問がある。若い時はいいとして年取ってからはとてもそういうところに住めなくなる。
精神というものは、場に影響しあいます。その人の精神が場に顕現するともいっていいものです。その人物がその場をどのように清め調えているのか、あるいは荒廃したものをまたどのように甦生し以前よりも善いものへと磨き上げていくのか。これは伝承や文化の話でもあり、生き物たちはそうやって常に自然といのちと向き合いながら豊かに仕合せに生きているともいえます。
7月 | 2023 | かんながらの道 (caguya.com)
このプログに共感する、そもそも神道などなにかわからなくなっている。宗教もカルト化すると政治と経済が中心であり御利益しか求めない、それが怖いのは権力を得ることが目的化していることである
ここにはそいうことは全くない清浄な自然と合一する。そこでは全く権力とか御利益を求めていない
だから山伏とか胡散臭いとかなるが山で身を清めるということで宗教の基本を実行していたのである
現代の宗教は都会化した創価でも団地の宗教となりやがて国家権力を得るためのものとなった
心の清浄など全く求めていない、ただ神道でも国家権力と一体化したときおかしくなった
だから政教一致は危険なのである。
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