2023年09月11日

福島県の地理(会津)から韓半島の地理 (地理は現実にその場に立たない限り実感できない)


福島県の地理(会津)から韓半島の地理

(地理は現実にその場に立たない限り実感できない)

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●地理は基本的に変えられない

地理を分かるにはその場に立たない限り分からない。地理は地図をいくら見てもわからない。つまり地理はその場に一度でも立つとき実感する。ただ世界はあまりに広すぎるからとてもその場に立ったとしても実感することは本当に難しい。
例えば私の住んでいる福島県の浜通りは阿武隈山脈というか高原に遮られて福島市の方はまったく見えないのである。だから地理的一体感を持てないのである。むしろ男鹿半島とか金華山とか原町市からも鹿島区からも山に登ると見えるのである。
そして鹿島区の山に登ってみたとき近くに大きく男鹿半島は迫って見えたのである。すると男鹿半島とか金華山は身近なものと感じるのである。でも阿武隈山脈と高原に遮られてて福島市は見えない。だから吾妻山も見えないのである。するとどうなるかというと何か常に阿武隈高原に遮られて一体感が感じないのである一体感がもてないのである。
でも阿武隈山脈を取り除くことはできない。結果的に人間はいくら文明が発達しても地理は変えることができないのである。

地理的制約を克服できないのである。ただ山があればトンネルを掘り川があれば橋を渡しどこその地理的制約を克服することはできる。でも基本的に阿武隈山脈取り除くことはできないのでどうしても福島県とあっても地理的一体感を感じないのである。人間はやはり基本的にその土地と一体感を持つのはやはり狭い範囲なのである。だからこそ日本に小国という地名が多いのである。その狭い範囲が一つの国と認識していたのである。

どうしても範囲が広くなると地理的一体感は持てない。だから人間は基本的に地理的一体感を持つところが国となっていたことは確かである。だから福島県はハマナカアイズと三つ分かれている。でもそれが地理的一体感を持てないのである。そこで福島県は何か地理的に分断されて意識的にも一体感が持てない。それは明治維新で無理やりに行政区域として人工的に県を作ったからそうなったのである。

●会津は地理的歴史的にも別な国

だから会津はもともと一つの別な大きな国だった。だから会津県がありまた二本松県がありまた浜通りの磐城県があったということになる。それそれを無理やりに福島県にしたのである。だから福島県は広すぎて一体感を持てないのである。
福島県だけでなく明治維新後は県にしたがそれが地理的一体感など関係なく区切ったからそこに問題が起きた。ただ山形県とかなると面白山でトンネルをくぐると山形県に出る。山寺に出るがそこは山形県なのである。また山形市から峠駅ありりそこを下ると福島市福島盆地に出る。それは境としてわかりやすいのである。でも宮城県と岩手県の境はわかりにくくなる。平泉が岩手県になっても宮城県から平地になっているから境を感じないのであ
る。
地理で大事なのは境界である。なぜなら境界があって地理を認識するからである。それで大陸でわは川が境界となる。ローマ帝国はゲルマン民族の住んでいるドイツ侵攻したがそこにドイツの父なる川としてのライン川がありそこが境界となり遮られて侵略できなかった。そのことが現代のにも通じていた。クライナ戦争で理解した。
ドニエプル川を挟んで攻防があったからである。その川を渡り進行すれば支配地を拡大できる。でもその川を渡るのは難儀でありさえぎられるのである。それは現代の科学技術が発達しても同じだったのである。ドニエプル川を挟んでとロシアは対立してその川を越えて支配地をを広げる。川は境界となっていたのである

このように地理は戦争でもそうだが日々の生活でも地理から離れて人間の生活はないのである。例えば峠という漢字は日本の国字であり中国などにはないのである。というのは日本というのは山が多く当然そのために峠が多いからそれが国字となったのである。

●海がない山国の会津の地理の不利

例えば会津になるとなぜあそこに東北で最大の大塚山古墳があり三角縁神獣鏡金が唯一出土したとしたのかとなるとやはり日本海と関係ありまた山伝いで信州からの影響はあった。また毛野氏が大きな勢力を持ったのか。その毛野氏が私の住んでいる南相馬市の鹿島区浮田国造が置かれた場だったらである。だから常磐高速道の道路のSAにその神社はが祀られている。
でもなぜ毛野氏がこの地に関係したのか。なぜ毛野氏が大きな勢力を持ったのか。それは縄文時代は山の方が生活の根拠でありそれで勢力を持っていたとなる。飯館村に縄文中期の古い遺跡があるという時もそうである。山側のほうは日本では古い。
関東平野があっても湿地帯になっていてそこで米を作ることが最初できなかった。大概日本では平地は湿地帯になっていたからであうる。それで米作りでも山の斜面の県(あがた)で作っていたのである。
例えば会津と言う時山国であり明治維新になぜ薩摩長州に攻められて苦しめられたのか。それはやはり地理的要因が大きかったので。なぜなら明治維新は実際は七つの海を支配した大英帝国は深く関わっていてその後押しがあって明治維新がなされた加治将一氏は書いている。

明治維新はアメリカの黒船が来てイギリスは薩摩と海戦を行ないイギリスの船が日本列島回遊して行っていた。そして太平洋を回り函館に来てそれから新潟の方に回った。新潟も函館と同じく外国船が入る港になる予定だったのである。

1867年まず倒幕工作はし上がってゆく。起動させたのはやはり軍艦だった。イギリスの二隻の軍艦が宮城沖を北上しそこから東北の沿岸を丹念に睥睨しながら秋田沖を南下新潟港に入港した海洋新潟あたりをうろついたのは東北北陸諸藩に対するプレッシャーもさることながら新潟の背後に居る幕府の番犬会津藩をにらんでにことである。地方に軍艦お見せの庶民に衝撃が与えるのは一つだ(加治将一あやつられた龍馬)


会津は海に面していないからそのイギリスの船も観ていない。そのために時勢を知ることができなかったとなる。ただプロイセンと一体化して北海道で会津藩が防備することはあった。だから外国と関係しないということでわなかった。プロイセンはドイツであり陸の国ランドパワーの国だった。でも地理的要因で時勢を見ることは誤ったともなる。それは二本松藩とかでもそうだった。だから明治維新でも地理的要因が大きく作用したのである。だから歴史を見るとき地理を知らないと具体的に実感できないのである。

明治維新は最初に黒船が来たように海をめぐってのめぐって外国と戦い外国人を入れてそれで明治維新がなったのである。それを象徴しているのは船中八策とか船の中で坂本龍馬が考えた新しい日本の羅針盤となるものであった。つまり何か常に明治になっ海に囲まれた日本がその海は江戸時代は鎖国で閉ざされていたがその海を通じてまた外国開け外国人受け入れて明治維新がなったのである。

つまり大航海時代から既にシーパワーは世界を導くものとなりそのシーパワーの先導役の船だったのでだから薩摩でもイギリスの海軍と軍艦と戦ってイギリスの力を身をもって知ったのである。でも会津となると海もないし新潟までイギリスの船が来てもそれを見ることもできなかったのである。そして山に閉ざされた世界で日本から日本も外国も見ていたから遅れたとなる。だから地理的要因がそうさせたと思う。ただこれまで明治維新というのは日本人の力だけで成し遂げたとかして日本人はすごいということがここから始まっていた。でも実際はイギリスとかは深くかかわって成し遂げられたものだったのである。でもほかの国はみんな植民地化されたのだからやはり日本は外国の影響があっても独立していた唯一のアジアの国だったともなる

●済州島の漢拏山の位置

ともかく地理を実感として知るにはその場に立つことである。一回でもその場に立てば地理をある程度実感できる。そして地理を実感するというときその範囲は限られている。
旅してわかったことは日本だといかに韓半島があたかも日本国の延長のようにも感じた。例えば済州島の漢拏山は2000mもの高さがありそこには登れなかったがもしそこに登れば中国を望み韓半島を望み日本を望むことになる。その時意外と韓半島は日本の延長のように思うしまた韓半島から見れば日本は海に遮られても陸続きのようにも感じるのである。そこに韓半島の不思議があった。

済州島漢拏山より

済州島の漢拏山に春風吹き
その高き山を仰ぎ見る
中国を望み韓半島を望み
日本を望み一体となる
地理は神が創り歴史を作る
地理を知らずして世界を知り得ない
汝は今春風を受け海を望み
済州島に立ちアジア創世の地理を体得す
視界を広げよ世界に東西南北に
太陽は未だ知らざる所より昇り沈む

A spring breeze blows over Jeju's Hallasan
I look up at that lofty mountain
Looking toward China and the Korean peninsula
I look to Japan and become one with it
Geography is God's creation and history's making
You cannot know the world without knowing geography
You now catch the spring breeze and see the sea
Stand on Jeju Island and learn the geography of Asia's creation
Expand your vision to the world, east, west, south, north and south
The sun rises and sets from places yet unknown


●百済武寧王陵を訪ねる

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキ(高野槙)と判明したことも大きな話題となった。このほか、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土し
武寧王は第25代の百済の王(在位501〜523年)。名前は斯麻、又は隆。
『三国史記』によると百済第24代東城王(479−501)の二男。
『日本書紀』によると、倭の加唐島生まれで東城王の異母兄。
異説では第21代蓋鹵(こうろ)王(455−475)の息子。
殺害された東城王の後を継ぎ40歳で即位。
高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、
民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王です。

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている[2]。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている

春武寧王陵

日本征人来
武寧王陵立
大河岸春草
銀匙使優雅
煉瓦精緻組
中国南朝産
百済栄交流

武寧王陵は大きな河の岸辺にあった。その煉瓦造りであり銀製の匙とかが残っていた。武寧王と日本の関係は伝説化しているが事実である。その大河のの岸辺に立ったとき中国の方を望み地理的に通じ合っていること実感したのである。
それは中国が南朝の時であり中国の文化が入ってきて煉瓦造りの墓がここに作られていたのである。つまり韓半島というのは地理的にも日本と一体感を感じてそれが中国への通じている。だからいかに韓半島が日本にとっても中国にとってもそれが一つの橋のようになっていたのである。そこで日本と唐が争ったというのも理解できるしその後もなぜ韓半島が日本であれアメリカであり対立の場になったか地理的要因が大きいものだったのである。

地理というのはあくまでもその場に立ち実感することが大事なのである。ただ世界になるとあまりにも広すぎて実感することは不可能である。それゆえに地理に関しては常に誤解は生まれるのである。

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