2023年09月17日

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた (ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた

(ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

softimage.jpg

人間はハードの機械ではないソフトなのである 機械にソフトの人間が入って来たのである。
being image creatorがこうして表現できることが不思議なのである

poorjapan.jpg


医師とプログラマーと地域創成の女性とかが討論する。でもなにか議論でもかみあわない、それぞれ違った立場でありかみ合わない、そこに現代の複雑さがある、異分野の人と話しても互いに理解すること自体むずかしいのである。



現在はあらゆるものが飽和状態になっている。電器製品でも車でもあらゆる機械道具類でも飽和状態である。それで新製品になると何を変えるのかとなるとデザインとかを変える。それはパソコンでもハードの面ではこれ以上の技術的進歩は得られない。今やパソコンはハードではなくソフトの面がの方が大事になっている。だからソフトというときそれはハードではない。ものづくりともう違う。

それで一番感心したのがbingイメージクリエーターである。なぜ簡単な言葉を入れただけで絵画は作られるのか写真が作られるのかそれもかなり優れたものなのである。それがどうして作られるのか不思議になる。それはパソコンというハードが作っているものではない。パソコンのハードは今やどこの会社でも個人でさえ作れる。となると何が売れるのかとなるととソフトなのである。
それはパソコンというハードを作ることではない。日本がなぜコンピューター分野で遅れたのか。それはハードの面だけでなくソフトは作れなかったということである。

日本はものづくりで優れていたとされていた。それで高度成長時代を築いた。でもコンピューター時代になった時なぜ遅れてしまったのか。コンピューターというのは確かに最初はハードが大事だった。でもコンピューターで大事なのはソフトだったのである。そこが理解されされていなかった。だから日本で世界に通用するソフトが作れていない。 bing イメージクリエーターというのもソフトの一つである。そういうものは日本で開発されていないのである。そして機械とか道具とか製品とかハードの面だと画一した大量生産して日本では電器製品などを売り高度成長時代があった。でもその後IT化とかコンピューターのソフトは大事になった時日本は遅れてしまった。

そしてものでも道具類でも機械でも飽和状態になったとき人々は何を求めるのか。人々それはハードの面ではなくソフトの面に人間の関心が移行していることなのである。
このソフトというとき何なのか。それは文化的なものにもなる。文化というときカルチャーはcultivateでありその土地土地から生まれる独自のものである。
なぜ独自になるかというと地理と風土がみんな違っているからである。福島県だったらハマナカアイズと違った風土であり景色だからである。そこでそこから生まれてくるものもまた違ってくるのである。感覚的に海側に住む者と山側に住む者は違ったものになる。そこで作られる世界観も違ったものになる。それが多様な文化になるのである。

だからこれからはハードではなくソフトが大事になる。コンピューターはハードが大事なのではないいかにソフトを作るかが大事になる。その一つがbing イメージクリエイターなのである。コンピューターは芸術の分野まで関係してコンピューターを通じて創作するという時代になっている。それはハードを通じて創作するのではなくあくまでもソフトを通じて創作するのである
だからイノベーションというときハードを作ることではないソフトを作ることなのである。プログラムとは物を作ることではないソフトを作ることである。

そして文化というとき一番食が文化になるというときその食の元になる材料がその土地土地から取れて独特のものになっているからである。その土地と風土によってその材料も違ってくるし味わいも違ってくる。それが文化なのである。
ハンバーグのように世界中どこでも同じようなものを食べるのは無味乾燥であり味わいもなく文化もないのである。ただ腹を満たすというだけである。人間は今文化を味わいたい。だから観光が盛んになるのはものを買うというより文化を味わいたいということでそうなったのである

なぜならそもそも地理は違うと景色もまるで違ったものとなりそこで食べるものも違ってくる。その魅力は尽きないし画一化して作られたものに魅力を感じなくなる。
だから文化というとき車に乗って旅することではない。むしろ昔の街道歩いたりすれば人間の五感が働き新鮮な感動をもたらすということである。車でただスピードを出して通りすぎても何も感じないとなるからである。だから文化を味わうというときは人間の五感を働かせるようにすることである。

大量規格品製品を作るという時代は終った。でも手作りの作品などがかえってそこに温かみがあり価値が出てくるかもしれない。それは高くても買う人が出てくるかもしれない。つまりそれが文化の時代なのである。外国に来てただハンバーグを食べてるだけなら何の感動もないのである。必ず土地土地には違った風景がまずありそこで生まれた食もあり何かそこにはその土地に育まれて作られたものはありまた料理もあるからそれが魅力となるのである。

この辺では福島県でわハマナカアイズとありそれぞれ違った風土になそこで育まれたものもまた違っている。会津だと食べ物として栃の実から作った栃餅などがある。そそれは結構作るのに難しいのででもそれを食べた時山国の会津を感じるのである。
そして狭い範囲でも同じ景色ではないし歴史も違っている。だから相馬藩内でも原町は機関区にもなり明治以降物流の拠点として新しく発展した街でだから駅前通りが繁栄したのである。

でも相馬市は城があり城下町である。だから雰囲気が違っている。ただそれが外から来た人には城もないので分かりにくいのでそれで最近分かったことは原町は白い夏菊があっている。鹿島区草深く咲いている藪甘草が合っている。相馬市は城跡に藤棚があるように藤が似合っているともなる。それが文化なのである。文化はそこに長く住んで発見されるものである。だからちょっと旅に寄ったからといってその土地のことは理解できないのである。文化を知る文化を作るということはやはり相当に時間がかかる。それはやはりその土地土地に違った風土があり地理がありそれを理解するにわ時間が必要だからそうなっているので

文化というものは何か物のように必ずしも金で買えないものなのかもしれない。その土地の風景などは確かに誰でも見れるがそれを深く感じるということは難しい。その土地と風土と一体化したものを感じることは時間が必要であり難しい。でも芭蕉の奥の細道とかなると別に長く住んでいるわけでもないのにみちのくというのを外から見て発見されたのである。なぜならみちのくというとき必ず奥の細道をイメージするからである。だから一人の詩人の力も大きかったとなる。

5月雨の降り残してや光堂 芭蕉

これは空間的なものと時間的なものは表面されている。みちのくという空間的なものと風雨にもめげずに残された光堂という時間軸での表現がありまさにこれが文化なのである。文化というときやはり空間軸地理的なものと時間で育まれるものがあ。時間は歴史で形成されたものは文化なのである

その味わいは深くその価値は返って400年過ぎても価値を増しているのである。文化というときなぜか大都会からは生まれない。東京とか1000万もの都会になるとそこは物流の世界であり物量の世界でありそこで歴史とか風土が感じられない。東京なら確かに江戸時代がありその風景は美しいものだった。でも今東京に行って美となるものを感じないのである。ただ巨大なビルを見上げて人間の小ささを知らしめられるだけである。
だからヨーロッパでも文化が生まれたのはフィレンツェなど5万くらいの都市国家だったのでそんな小さな年からでも文化は生まれる。むしろ小さいからそこで一つの独得のの世界を認識し文化が生まれたとなる。とても東京とかニューヨークとかからは文化は生まれない。巨大な物流の世界であり群衆の世界でありただ経済の場であり文化の場にはならないのである。

文化は地方から発信される。それがインターネットができて誰でも気軽に発信できるようになった。その土地のことを誰でもその場に住んで紹介できるのである。だから私のプログを読んだらどういう場所なのかある程度はわかる。これまではなかなか地方というのは紹介しにくかった。テレビとか紹介テレビとかで紹介しても地元の人がそこに住んで紹介するということができなかった。今ならユーチューブでも簡単に紹介できる。ただそのコンテンツを作る動画を作るスキルが問題になる。動画になると相当に手間なのである。するとそんなにいろいろなことを一人でやるのは無理だとなる。プログで一記事毎日出すのは結構な手間なのである。それに加えて動画を出そうとしたら面倒になったのである。今は家事も全部しているからその暇がなくなったのである。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/190562058
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック