2023年10月03日

遠野の地名由来 (地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


遠野の地名由来

(地理は地形を知り境界を知るー関ケ原、区界(くさかい)など)


●遠野の地名

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(1) 閉伊の先、閉伊の奥の意味で呼んだ汎称「遠閉伊」の野原という意味
(2) 山間の遠い野
(3) アイヌ語のト(沼)ヌプ(野)
(4) 「東野」の意味で東方の野
(5) 「撓野(タワノ)」の転訛で、たわんだ地形の盆地  

「遠閉伊(とほのへい)」の下略形という。または「タヲ(ゆがんだ地形)」+「ノ(野)」の転か

こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。


 遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。
上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい

平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。

これが有力である。なぜなら正史にも記されているからである。
閉伊郡ありこれは宮古を中心に広い範囲である。宮古が早く開けたが遠野となるとかなり奥地になるからである。
それは地形として理解できる。地形を基にしたものが地名であり地形と一致しているからわかりやすい。日本で野というとき野原とか平地をイメージするが実際は山の斜面であり平なところではない、平の地名は別なのである。日本で平らな所は湿地帯とか沼と湖になっていて住めなかったのである。
だから田でも最初は山の斜面に作っていた。それで県(あがた)が最初の国になったのである。
入野とか遠野とかの地名は平らな場所ではないのである。

吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡(たご)の入野の 奥も悲しも
(万葉集 東歌)

この歌は山に挟まれた奥の地域ということである。日本にはそういう場所が多いからである。

いわき市の遠野町は

上遠野郷の由来 上遠野郷の歴史」に「福島県石城郡の『今昔我等の郷土』によればー岩城氏の一族上遠野滝氏の領であったとい


地名で混同するのは地形と姓が一体化する。もともと地形を基にしていたのが村の名が姓となりその姓が移動して村の名になる
いわき市の遠野がそうである。遠野氏が支配して遠野となったとしいる。それはもともと中村村だったのが相馬氏が支配して相馬市になった。でもそれは最近のことだったのである。
やはり地名と地形が一致する時地理はわかりやすくなる。

私は御斎所を街道下り遠野に出た。その時稲は刈られて刈田になっていた。だから淋しい風景だった、地形から見ればまさに遠野だったのである。それが遠野氏が支配して遠野になったというとき何かがっかりしたともなる。
でも遠野はその地形と合っていたのである。

刈田なれ遠野に来たり農夫に会う

●地理は境を知るとわかりやすい

地理を知るには境を知ることである。どこが境となるのかそれも人為的行政的な境ではなく地形の境を知ることである。人為的なとは例えば戦国時代でも新地は相馬藩ではない伊達藩である。そこは別に地形と関係ないのである。遮る川も山もないからである。
ただ伊達政宗の領地になったからでありそういう地名は地形と関係ないのである。だから参考にならないのである。

そして必ずしも境は地形と一致してあるわけではない。地形と一致している時わかりやすくなる。例えば山形県と宮城県は面白山トンネルがありそのトンネルを抜けると山形県になる。その山が明らかに境界となる。現実に面白山のトンネルを抜けると依然として春なのに雪がなお厚く山に残っている。トンネルを抜けると雪国だったとなる。

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ・斎藤茂吉

これは陸奥となれば福島県、宮城県、岩手県と広大である。でも二つに分けるとはならない、蔵王は山脈ではないし蔵王という一つの山だからである。ただ福島県の南相馬市の鹿島区まで蔵王は明確に見える。だから陸奥の象徴的山にはなっている。
でも陸奥を二つに分ける山ではない、それより私の住んでいる阿武隈山脈はいわき市まで続いているから中通りの吾妻山は見えない、だからこの山脈こそ福島県を分けているのである。
この阿武隈山脈があることで浜通りは地理的一体感がないのである。でも近くの山に登ると牡鹿半島から金華山が大きく見えたのである。だから地形的には宮城県の方が一体感があるとなる。
とにかく人間に心の面でも地理と風土は一番影響する。そして地形は人間の力で変えることができない。阿武隈山脈を平らにすることはできないからこれはいくら交通が発達しても地形そのものは変えられないのである。

大陸だとヨーロッパならライン川がありそこがゲルマンの境でありローマ帝国が侵略できない地帯になっていた。大陸だとこうした大河が境になる。それはロシアとウクライナの戦争でもそうだった。ドニエプル川が境となりその川を渡って攻撃することが難しいのである。川を渡り攻め入ることが危険になる。だから川をめぐって攻防があり現代でも同じだったとなる。つまり地理の地形のカルマがありかわらないから依然として河をめぐって攻防がある
そして今年は異常に暑く干ばつにもなりライン川の水が減り船で物資を運べないとして苦しんでいる。大陸では今も川が交通路となり物資を運んでいるのである。

●地歴を知るには境を知る

地歴というとき地は地形のことである。歴史も地形から作られから地歴となったのである。
関ケ原でなぜ天下分け目の戦いがあったのか、地形と地理が関係していた。関ケ原は東西を分ける境目だったのである。
気候的にもそうである。関ケ原を電車で行くと雪が残っている。まだ冬を感じる。でも関ケ原を抜けると近江になりそこは春となっている。景色も何か穏やかに感じる。
不思議だったのは琵琶湖の湖西線が通る高島から関ケ原の方を見るとそこから朝日が昇ってきたことである。それが意外だった
それで東でありそこから東(あずま)となっていたのである。

雪残る関ケ原を出て近江かな
近江に出穏やかなれや春の山
近江なれ蓮華の野を見て三上山

●みちのくの真野の草原も境のことだった

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌も境の歌だった。そのこと追求してきた。この歌は大和王権に属する陸奥の辺境のことだった。それはやはり気候としても南となりマルハシャリンバイの自生の地として南相馬市の鹿島区の海老浜が指定されていたからである。そのことは書いてきた
ただ津波で海老村は消失してしまった

これらの山を詠んだ歌は、生駒山は三例、竜田山は三例、奈良山は真土山といった、大和国を越えていく地点を詠むことが多い。『万葉集』では関より、次のように生駒山・竜田山・奈良山・真土山は六例を数える。

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
(中臣宅守)

(徒に関険を設け、防禦を用ふ
の往来、毎に稽留の苦を致す。『続日本紀』延暦八年七月甲寅条)
遂に中外をして隔絶せしむ。既に通利の便を失い、公私と、わずか四例のみである。以下に二例のみ挙げる。
対して『万葉集』では、次の歌をはじめとして、 

遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしのなきがさぶしさ
夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ我が来る妹が目を欲り
白雲の竜田の山の露霜に色付く時にうち越えて旅行く君は

五百重山い行きさくみ賊守る筑紫に至り
これらから、意識の上では、関を越えることよりも山々を越え
りことなのである。


『万葉集』にみる「みやこ」と「ひな」への意識
file:///C:/Users/KOBAYASHI/Downloads/nike_061_137.pdf



奈良時代は関所より障壁となる山とか川が意識された。特に日本では山が多いから山を越えることに難儀したから山はまた国の境ともなり峠をこえることが異郷に行くことだった。それで峠という漢字は日本人が作った国字なのである。

山が境になる時今は車とか電車でも行くとわかりにくくなった。歩いて苦労して旅することがなくなったからである。
でも岩手県の宮古市から電車で区界(くざかい)という地点はかなり標高が高い
だからそこに電車が止まったとき雪が春でも厚く消えずに残っていたのである。

区界駅雪厚く残り一時を電車の止まり越えて行くかな

まさに区界(くざかい)境界だったのである。

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