こころはここにある(詩)ー浪江町津島のNHKの放送の感想
●こころの詩−場所の価値−自然のない大都会に価値がない
ここに糧ともしきも
田を作り土を耕し牛を飼い
苦しくも生きにし者よ
ここに生き心はここにある
残されし重々しい岩の墓
ここの大地に根ずきしように
そは離れざるかも
こころはここにある
ここを離れて心はない
汝の価値はここに生きしことにあり
その岩の墓がその重みを語る
かたや林の小径にあわれ
草深く隠され月見草咲きぬ
柏原村へ通じる道なりしも
我が祖父の育ちし所なれや
津島を後に葛尾村に我は行く
人間の価値は多様である。価値という時その住む場所が価値を持つ。自然は多様で自然も多様でありそこに住む人間の価値も多様になるのである。山に住む人と海側に住む人の感覚もまた違ってくる。山にしても一様でないからその地形の変化の中で価値が違ったものになる。そもそも価値を作り出しているのは自然である。その場所さえ自然が作ったものだからである。
だから自然が無い所に本当の価値は生まれない。それで東京とかの大都会には自然がないので価値が感じられないのである。でも経済的価値とか工業的価値とか商業的価値とかは比べにならないほどある。でも自然的価値がないので魅力が今は感じる感じられないのである。
ただ人とビルの谷間で混雑して疲れるだけだとなる。そういう場所に豪邸を建てても価値あると思えないのである。ビルの谷間に埋もれてただ家ばかり見ていたらそこ美もない。でもいつも富士山が見えるような場所に豪邸が立てばそれは価値あると見る。
ということはあばら屋であっても自然の中にあれば美しいものとさえなり得る。日々そこに自然の変化があり自然の美に映えるからである。だからこそ時代がさかのぼれば遡るほど実は自然は美しいものとなっていたのである。一番美しかったのは原始時代だったということになる。そこには人間の手が加わらないから自然そのものがあったからである。
その美しさは息をのむような美しさであった。何一つ人間の手は加えられないから自然そのものが手付かずでこの世のものとは思えないように美しいものだったのである。そういう時代を歌ったものが万葉集である。
豊国の企救の浜辺の真砂地真直にしあらば何か嘆かむ
このような感覚になるのはやはりそれほど美しい浜辺の浜が広がっていた。砂の浜が手つかずの白砂の浜が広がっていた。そこでその美に触れてその心も真直であれば何も嘆くことはないとなったのである。これは逆説的である。
現在ではそういうそうした自然の美よりさまざまな贅沢を物質的な贅沢を望むからである。自然の純粋な美に打たれてただそこで真直に生きられればあとは何もなくてもいいとはならない。それが現在との大きな相違である。それが現代人が失った大木きなものかもしれない。それは現代人というだけではない文明人が失ったものかもしれない。
●文明大都会に美がない
ただ逆に文明というものは大都会を見ればわかるようにそこには美はないのである。それだけ経済的に繁栄しても美は無い。その大都会から生まれるのもまた宗教でもカルト宗教のように醜悪なものになる。中国でもそうだが宗教は天台宗から始まっている。
天台宗とは山岳宗教であり天の台で山を聖としてそこで修行したからである。日本だと比叡山がその始まりであり日蓮もそこで学んだのである。山伏とかなると胡散臭いとも見るがやはり山を聖なるものとして修行の場としたから大都会から生まれた今のカルトとは違っている。今のカルト宗教は何か異様なほど御利益にとり付かれたものであり清浄な雰囲気はゼロである。だからなぜそれが宗教なのか全く理解できないのである。ぎらぎらとどぎつい欲望を持った人たちに占拠された場所である。
とにかく一体東京とか大都会に何か価値があるのかとなってしまう。ただ経済的物質的価値はとてつもなく大きいのである
美的観点から見ればその価値はゼロにもなってしまうのである。だからかちとはさまざまであり人によっても価値観は違ってくる。でもどうしても美的観点からすると大都会には自然がないので価値が生まれないのである。
逆説的に田舎でも山村でも何もないとしても自然の中に暮らしているからそれで価値が生まれている。大都会だと自然は消失して人工物に覆われてそこに美は無いのである。だからなぜ人間の作り出した文明のそんなものでしかないというとき何なのだろうとなる。それでもその文明都市をつくり出すは膨大なエネルギーを費やしているからである。
このように大都市化とともに逆に限界集落が多くなりなり消滅してゆく。この辺は原発事故でそうなったのだが全国的にも辺鄙な山村などは消滅してゆく。でもそれはそこにも価値があった。その場所に生きる価値があった。大都会のビルの谷間にうずもれているよりそこに生きている人は一人一人は自然の中で生きているという感覚になっていた。だからそこで生きることは価値あることなのである。それは都会にはない価値がある。
何か村の人が死の時私はこの村の先祖になるというときそれはその場所に生き続けることを望んだからである。その場所に価値あるものとして存在しし続けることはを望んだのである。
その一つが浪江のの津島の岩の墓なのである。それはその村の中に残り先祖として重みを持って存在し続けるということである。都会だったらそんなことはあり得ない。納骨堂の一室を買いそこでお参りする。それは死者の団地のようにも見える。遠く離れて墓地の一区画を買ったものもありもともとその土地とは何の関係もないのである。
でもそうした山村の墓地はそういうものとは違う。村の先祖として生き続ける者として墓地もある。その墓地がなくなったにしろ今度は先祖の霊は山に帰るとして山が先祖の山になるのである。つまり先祖はその村に何でやれ消失してしまうのでなくいち続けるのである。
いずれにしろ一つの村が失われ村が失われることは何を意味しているのか。それはやはり継続された村の価値が失われることになる。それとともに先祖も死んでゆくのである。墓地があっても墓参りする人もなく先祖の霊は容器と化して行くのである。それで確かに都会に移り住んだ人が多い。補償金も多額だからそれもできた。でもそこで失われたものがやはりある。それが今自分が語っていることである。それは精神的なものでもありなかなか自覚できないかもしれない。でも都会に出ていい暮らしをしても何か物足りないものを感じる。それが失われたものなのである。
●人間は失ってみて本当の価値がわかる‐故郷も同じ
ただ私自身がそうは言っても外部から理想化して見ているだけであり現実そこに暮らすことはあまりにも厳しいとなっていた。つまり直接そこに住んで苦しまないのだからただ理想的に見てしまうのである。要するにそこで働き苦しむ人がいるけ絵を描いている人にもなるがにもなる。だからそこにそこに住むことの本当の苦しさを表現できないのである。
ただエゴマを作っているというときやはりそのエゴマが放射性物質に汚染されないで売れるようになればその村の復興の手がかりとなる。農業の場合種を蒔きその種子が実となりなり花となることが希望だからである。でもそこにはすでに老人しかいないということが若い人もいない子供もいないということはもう村を維持できないとなっている。それは全国的に起きていることである。
エゴマの種を植える
エゴマが育ち実り
そこに希望がある
村は継続され先祖もここに安らふ
いずれにしろ心がここにあるというとき確かに補償金で都会で楽な暮らしはできている。でも心はない。その心のある場所はやはり苦しくても貧しくても育ったその村にあったからである。だからその村にともに働き仲間と死ぬのは幸いでありそしてその村の先祖になることが幸いだとなる。都会に出てももはやそういうことはありえないからである。すでに1万くらいの町でも人々のつながりは希薄化して存在感がなくなっている。千人くらいの村だったら人一人の存在感があり一軒一軒ので家でもそうであり自然の中で四季折々に映える。
だから人間は失って見ないとその本当の価値は分からないということでもある。そこが人間の盲点なのである。当たり前にあるものは実は希少なものだったということが失ってみて初めて分かるのである。それは家族も全部死んだ結果私自身も痛切に感じたことだったのである。
啄木がなぜあれほど望郷の詩人となったのかそれをふるさと離れて若くして故郷に帰れず死んだからである。別にそこに住んでいればそんなに感じることはなかったのである。故郷にしてもそれは当たり前にあるものでありその価値はわからない。ただ失った時痛切ににその価値を感じるたのである。
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 啄木
つまりそれだけふ故郷の景色が東京の都会の人混みのなかで心に浮かび帰れないふるさとお忍び泣けとごとくにだったのである。
こころは東京にはなかったのである。それまで故郷は忌避するものでもあり脱出する場でもあった。でもそれが痛切な望郷の人なったのはやはり故郷は遠きにありて思うものともなっていたからである毎日住んでいる故郷は平凡なものしか見えないのである。視点を変えれば自然の景観も違うようにその価値もまた変わってくるのである。
●三野混沌の詩の語るもの
ふしぎなコトリらがなく
花が咲いている
どういうものか ひとのうちにゆくものではない
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ
それでいい
クサをとりながらつちこにぬれろ
いきもはなもつかなくなれ
これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいことをのこしておけ
いちばんむずかしいなかでしね
(三野混沌)
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ
そこでしぬまでととまれ
とは畑で仕事しながら死ぬということか、それほどその場所に生きることにこだわっていたのである。というのは農業は土地と不可分に結びついているから一体となるからである
そして最後はその土地の土ともなるのである。そして御先祖様になるのである。農民は土から離れたありえない、土に生き土に死にその場に生きその場に死ぬとなる
三野混沌の土着的生活が現代に問うもの
(原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)
タグ:故郷とは 美がない大都会 場所の価値 大都会と山村の価値 失ってわかる価値 自然が価値を創る 宗教の起源は天台宗 カルト宗教は東京から生まれた 東京には美はない 村の存在価値 御先祖様となる 三野混沌の詩 農民は土着する
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