社会的死の考察【失われた人間の存在意義】
【村でご先祖様となった社会との比較】
無数のマス目があり一つが消えても意識されない
村の中で一人の人間は死ねば意識される、密接に村は一体化していたから
●村で働き死んだ者は御先祖様になる意味ーworkの意味
人間の死を考えるとき一つは生物的死がある。それは社会とは関係ない。誰しも生物であれば死ぬことは避けられないからである。その解決は社会ではできない。それは神との関係でしか解決できない。ここで問題にするのは社会的死である。
人間は社会の中で仲間の中で生きている。その最小限の単位が家族である。だから家族の中で人が死ぬと家族が最も悲しみ死んだ後でも供養する。 でももう一つ人は社会の中で生きているのだから社会的死というのがある。
例えば村という社会のなかで生きていれば人は死ぬと御先祖様になるという。そのご先祖様は山に行って春になると田植えの時期になると里にに下ってきて村人と一緒に田植えをするという田植えを手伝うという。それは何を意味しているのか。それは死んだ後でも村人と一緒に働いているということである。
英語のワークにはただ仕事をするという働くという意味だけではない。
「働く」や「機能する」から派生した表現で “work” は、
効果がある(薬やサプリなどが)効く
(機械やシステムが)機能する、動かない
workには何か様々な意味がある。作品という意味もある。機能するというとき社会に機能するということであり社会の中で働いていればその人は社会に機能する存在なのである。それで街に一軒しかなくなった自転車屋のことを死んだので語った。それは街の中で一軒しかないから貴重なものとなっていたのである。
つまり自転車を故障してもなおしてくれる人がいなくなったからである。だからこそ死んでその人が居なくなったことで社会が機能しなくなったともなる。その人は社会にとって不可欠なものだったことを認識したのである。
人は村社会で見れば村の中で共に働く仲間でありその一人でもかければ必ず意識したろう。そしてなぜ死んだら村のご先祖様になったのかということである。その人は死んでもやはりみんなが意識して村人が意識して存在していたのである。そして肝心なことは春になると山から降りてきて村人と一緒に田植えをする。それは村人と一緒にワークする働き機能するということである。
つまり人間は働くということはただ金を得るというだけではなかった。働くことは村人と一緒にあり村を支え合うものでありだからこそ死んでもまたご先祖様となり田植えの時期にわは緒に働いていたのである。ワークしていたのである。
●無数のパーツとなり存在意義が失われた
このことを考えると現在はどうなっているの現代の社会はどうなっているのか。無数のパーツに分かれて人は何をして働いているのかも見えない一人の人間が死んで消えたとしてもほとんど意識もしない。現実に小さな町であってもスーパーであれコンビニであれそこで働く人が変わってもまた死んだとしてもほとんど意識しないだろう。それよりそれは誰でも変わってやれるものであり極端になるとロボットにもなる。
現実に人間ではなく店も無人化してロボットがするようになる。それはすでに現実化しているところがある。ましてや都会になればさらに働いている人が何であれその人を意識するということはない。つまり今や無数のパーツとなってそれが一つ欠けからといって何か意識することもない。またそこを別なもの人でロボットでも埋め合わせすればいいとなっている。
とにかく働くということがただ金を稼ぐだけでありその価値とか意味を見い出せないのが現代なのである。だから一人の人間が死んだとしてもほとんど意識されない。ただなぜ自転車屋の人が死んでそれが死後も意識されたのか?。それは自転車屋が駅の前にあり駅と一体化していたためだった。なぜなら街の活性化のために駅を活性化するにはどうするかとか語ったことがあるからである。
だから不思議なことは電車に乗って無人駅になった駅に降りるとその前に自転車屋は今は閉じている。でもそこに仕事をしていた星淳一氏が迎えに来ているような感覚になったのである。なぜそうなったのかというと駅の前で長く自転車屋をしていて駅と一体化していたのである。それで死んでも自転車屋が星淳一氏が1迎えに来ているような感覚になったのである。つまり依然として街の中でワークして働いて機能していたとなる。
その自転車屋が記憶されたのはやはり個人ではなく社会の中で機能していたからだとなるワークしていたからだとなる
●文明社会で人間の繋がりがなくナチスやらカルト教団が生まれた
でも現代社会は無数のパーツになり個々の存在は希薄化して社会的死でも意識されない。ただ一つの部品が消えたというだけになってしまっている。それだけ存在感がなくなったのは現代社会だと思う。なぜなら人間の存在意義も希薄化してただ機械の部品のようになってしまったのである。
ただそのことからなぜナチスが生まれたりカルト教団が生まれたりしたのか。それはこうした現代社会の無数に部品化した人の集まりから何か一つの人間としてのつながりを求めて生まれたものかもしれない。
現代社会は大衆化社会でありそこに人のつながりはない。人間は本質的に人間のつながりを求める。だからこそ家族が不可欠になっているのである。でも社会では今やそうした繋がりを得ることはできない。それで擬似的つながりとしてカルト教団が興隆した原因である。それは本来の宗教とは何の関係もない。なぜなら欲望を抑えろとかそんなことを心を清めるとかそんなことは一切言わないからである。
ただ一票を集めるためにただ人を会員を増やすことを目的としてありあとは何も言わない。宗教だったらいろいろ制限がされるカルト教団にはそんなもの一切無いのである。ただ数が増えればいいだけだからである。それもやはり現代の抱えた現代の文明が生んだ病理的現象だったのである。
そして村社会など閉鎖された遅れた社会であり自由もなく逆らう者は村八分にされるという何か村というのは否定的なものとして見られたのである。
でも現在の比較でみるとそういう社会が現在より人の濃厚なつながりがありそれが自然とも通じていて死んでもご先祖様として意識される。すると村の中でやはり人間としての存在感があり生きる意味があったと思う。
ただそんな村社会など遅れた社会であり常に否定されるだけになったのである。でも本当にこの文明社会というのは人間にとって人間らしく生きられる社会とかとなればそうでもないのである。文明そのものが病んでいるからこそナチスとかが生まれたのである。人間は無数のパーツアトム化して人間社会的にその存在も機械の部品に過ぎず一人が死んでも歯車が一つ消えたというだけになってしまう。それでいまや人間の死というのは何か価値あるものでもないし社会にとっても意識されないのでまたそこに存在意義がない。ただの部品が消えただけだどうなっている。だから人間とはそんなものなのかとなるとあまりにもわびしいとなる。
●村社会と文明社会の相違―村社会は遅れていたのか?
だから奇妙なのは今山村などは限界集落化してそんなところに住むべきではないとしているが価値生きる価値とか意味を追求していけばそうはならない。人間の存在は意味は返って大きなものとなる巨大な機械の一部品でありそれが死んで消失しても誰も意識などしないのである。人間の意味とか価値を追求していけばでも山村でもそっちの方があるとなる。そこに逆説的なものがある。
つまり現代文明人が得たものは失われたものは昔の村にあったということである。それは今と昔を比較して理解できるのである。
だから歴史を知るということはそこに意味がある現代の矛盾とか問題を知りは過去はどうであったかということ知り比較すると明確になってくるのである。確かに物質的には現在は豊かになっても精神的には貧しいと自覚されるのである。
とにかく人間とは何かを得るものがあれば必ず何かを失っているのである。その失ったものがなかなか自覚できないのである。それは人の繋がりとか人間の生きる意味とか価値が失われてしまったということだから深刻なものでもある。でも日々の生活に追われて金に追われてそんなことを考える人は特殊な人だとなってしまう。
それで特別優れた天才などはアウトサイダーになった。ニーチェとか上野霄里(うえのしょうり )とかまたシュペングラーにしても西欧文明の没落数の面から指摘したのもまさに大衆化とは数の文明であり一人一人は数に過ぎないとなるからである。
そこに一人一人の存在意義などないのである。ただ票が集まると権力化してそれが社会に通用するとなる。一人一人の一票の中身などどうでもいいのである。いちいちその一人どうだとか心がどうだとか言っていたら票など集まらないからである。だから現在というのはナチスとかファシズムとかの危険が常にある。それは一人一人の存在意義が失われているからである。
それで村社会など遅れたものであり考察にも値しないとなるが精神的な面からすればそうでもなかったとなる。なぜなら現代では老人等尊敬する人は居ない。あまりにも数が多すぎてただ社会の負担とされているだけだからである。
でも村社会の中で死んだら御先祖様となるということはその村の中で尊敬されてそれも死後も生きつづける。そしたら人間の存在意義とかから見れば遅れたと言われる村社会の方が生きる存在意義があったとまでなるのである。
ただ物質的な面とか便利さを追求すれば現代社会は便利である。
でも老人は敬われないし長生きしてもいいことはないといくら医療が発達して長生きしても老人は幸福にはなれないのである。だから歴史を振り返り過去過去と比べると何が失われて確かに物質的には得るものがあったか失われたものもあったということである。それが今問題になっているのである。物質的には満たされている。
田舎ではみんな車一人一台もやはり持っている。パソコンだって今は6万くらいでいいものが買える。何かこれこれが欲しいというか買いたい物も無いのである。そして今人々が求めてるのはそういう物質的なものではなく老人として敬われたいとか価値あるものとされたいとか存在意義を持ちたいとかなっているのである。それを追求すると逆説的だけど村社会にあったなる。だから必ず人間社会は得るものがあれば失われるものがあるということである
タグ:workの意味 人が死んでも意識されない 文明と村社会 文明とファシズム 文明とカルト教団 存在意義を追求する時代 村で御先祖様となるとは 価値のない尊敬されない老人 パーツ化した労働 なぜアウトサイダーが生まれたのか 村社会にあり現代に失われたもの
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