俳句が写生になるのはなぜなのか?
(時雨は死を連想させる―確実に冬になった)
紫に橙に赤の木の実かな
寂として冬薔薇一輪に蕾かな
山茶花のあまた白しや人も来じ
はや暮れむ家の近くに時雨かな
人は生き何を残すや時雨かな
四五軒隣空地化時雨かな
老いの身に銀の雫の時雨かな
俳句というとき私は正岡子規の写生を基本に学んだ。なぜそれが俳句に適していたのか?俳句は短すぎるから悲しいとか淋しいとか感情的なものとか説明を加える表現の余地がないからである。
だから写生が短くてもそこから鑑賞する人がイメージさせるのである。だから写真と相性がいいのである。でもすべて写生でも表現ができない、つまり内面的なものになるとなかなか表現しにくい、写真でも絵でも表現しにくい、だから言葉になると内面的な物が表現できる。でも俳句では短くてできない。
そもそも芸術は鑑賞すること自体むずかしいのである。
午後から家を出たらすでにくれつつあった。まだ三時過ぎたとであり夕方にもなり風が冷たい、本当に冬になった。これまではまだ秋だった、ただ晩秋とか秋深しとか感じなかった
ただ確かに冬になった。家を出たら時雨であり秋時雨ではなかった。何か一日が暮れるのが早いと思った。人間は自然でも年齢によって感じ方が違う。老人は時間が早く過ぎるとなる。そして死が現実としてまじかなのである。
人間は死んで何を残すのだろうか?ぽつりと時雨一滴のように死んで何も残さない。時雨は死を連想させる。一滴の時雨が死に水のようにも思える、人間とはそれほど儚いものだったのである。
これは老人にならないとわからないのである。もうすでに回りでもあっけなく死んだ人が多い。そして誰もその人のこと語ることもないのである。これもわびしいとなる。人間はほとんど忘れられる。人間は一体何を死んで残すのだろうとなる。一滴の時雨は死を連想する
『 日の脚に 追はるる雲や はつしぐれ 』加賀千代女
これがふさわしい句だった。
『 ともし火の 一つ残りて 小夜時雨 』 正岡子規
おとはしぐれか
私もしばしば庵を訪ねてその厠にしゃがんだことがあるが窓のない暗いところ。秋深む天地のささやきが、孤独な山頭火の体を竪に通って地に落ちる、そうしたしぐれではあるまいか。」と紹介している。(『別冊新評』山頭火の世界「俳僧山頭火の句」大山澄太)
この音はまさに死を告げる音でもあった。今の時代都会では時雨とか感じにくい。また車社会になると自然が感じにくくなる。
風も雨も感じないからである。そこに車によって人間の五感が喪失したのである
とにかく家をでて近くで時雨を感じる。隣も四五軒壊され空地化した。すでにそこに住んだ人も誰かもわからないし語る人いないのである。死んでまだ数年も過ぎたい無くてもそうなのである。
ただ無常を感じるだけである。
ともかくプログはその日その日のことを報告するのに向いている。なぜなら印象に残ることをすぐに書けるからである。一日でも過ぎるとまた印象での変わってしまうからである。
プログはリアルタイムの報告に向いているのである。
こうして報告表現する場は今までなかったのである。おそらく死ぬ間際まで力が残っていれば書きつずけることがありうる。それを読む人もまたリアルタイムでよむということはありえなかった。雑誌に投稿しても一か月先ともなっていたからである。
とにかく今が晩秋なのか秋深しなのか季節的に狂ってしまった。
ただ冬になたことは確かである。
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