2023年11月19日

池田大作氏死亡 共通しているカルト教団の構造 【宗教を語りこの世の権力を追求した】


池田大作氏死亡 共通しているカルト教団の構造

【宗教を語りこの世の権力を追求した】

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必ずカルト教団は組織化して序列化する。それは共通している。でもそのとき本来の宗教は喪失する
組織化して権力化して外部に圧力をかける。そしてその組織団体は必ずこの世の権力をもち操作する
支配することを目指している

●池田大作の人物像−カルト教団の教祖の共通性

池田大作氏が死亡した。池田大作とは何者なのか。その人物像はどういうものなのかなかなかそれは外から見てはわかりにくいだろう。創価学会内に居るとなぜかあらゆることが池田大作氏を先生と呼んですべてが先生のために存在するとまでなる。
例えば選挙の時拠点に集まりそこで仏壇があり題目を唱えて池田先生のためにと一票を取るために奔走する。それほど池田大作氏というのはある意味で生き仏にもなっていたのである。
ただなぜそれほどまでに崇拝するのかとなるとそれもよくわからない。ただそういう場に居ればみんながそういうから逆らうことはできない。ただごくわずかの人ではあるが池田大作に相当に嫌って言って発言していた人もいたのである。
ではなぜそれほど池田大作氏にあたかもも神のごとく仏のごとく崇拝するようになっていたのか。それはカルト教団の特徴であり共通していたのである。


例えばオウムでも同じだった。麻原教祖がまるで仏のように祭り上げてその下にその配下に組織が作られていた。その組織でも必ず軍隊のようになっていて序列があり上と下周りその下の人は上に上がりたいと必死になる。それでオウムの場合は理系の人で有名な大学も出ている人もいて高卒だった人が何とか地位をを上げたいと率先してサリンを撒いたのである。

つまりカルト教団に共通しているのは教祖が神か仏になり偶像化してその配下に組織化して序列化してそこでその宗教団体自体が権力団体となるのである。それは例えば幸福の科学でも統一教会でも本当に同じだった。団体が組織化して必ずそこに軍隊組織のようになって序列化して上下関係が作られるのである。だから下のものはなんとか上に上がろうとするわけである。

ではそもそもなぜそんなに上に上がろうとするのかそれはカルト宗教団体というのは教祖が最終的にはこの世の王となることである。そしてこの世の王となった時この世の権力を得ることになるからその配下の者にこの世の権力を得させてそのカルト教団の地位が社会の地位にもなりうるのである。
それは下々の者にとっては魅力だったのである。つまりそのカルト教団の組織中で出世することが社会的にも出世することに通じていたのである。だからこの世から出るということが目的であった仏教でも全く逆の世界になってしまっていたのである。この世で出世することが目的としてそのカルト教団も存在しそのカルト教団の目的は教祖がこの世の王となりその配下の者がこの世の有力な地位につき御利益をを得るということである。

例えば本来宗教であれ釈迦は説法するとしてその弟子は十数人だった。キリストにしても12人であり人であれ孔子が説いたとしてもその数は十数人だたのである。それが何百万人が弟子となるときそれはもはや何になるのか。それはただハイル池田ともなり権力化して数の力を得て権力をほしいままにするというだけである。民主主義社会では選挙がその権力を得るための最大の手段なのだからその一票を得るために人があるだけだとなる。

つまり宗教のなどどうでもいいのである。第一百万票得るためにどうするのかいちいちその人をのことなど関係ない。一票になればいいだけの話である。カルト教団ではただご御利益を説くだけであり一票入れれば御利益があるとかそんなことばかり説くだけである。要するにハイルヒトラーと大して変わらないのである。
その目的は何なのかというとそれは共通している。この世の権力を得て教祖が王となりこの世を支配してこの世の栄華を追求することである。だから宗教とは正反対なのだけども人々が求めるのはこの世の栄華であれ御利益であれそれしかないのだからそれについてくる人が何百万人もいるということである。

●人間は利に敏く宗教も御利益なることで人を集めた

何か宗教に関わる人は胡散臭い。つまり宗教で飯を食うということはすでに何か後ろめたいものがある。だからこそパウロはテントと作りをして布教するにしても信者から金を貰っていないのである。それと正反対にカルト教団というのはどこにしろ莫大なこ金が集まる団体でありだからこそそれを狙って入る人もいる。
その団体に入れば何か得をするということで入る人もいる。そういう団体はどんな人でもいいのである。その人の心などどうでもいいのである要するに創価だったら一票になればいいだけである。そして毎日数を数えているだけである。数は力であり金が力だという時まさにそれしかない。

人間というのはとにかく難しいことは分からなくても利益になることはすぐにわかる。だから発達障害の人も利だけは聡いのである。それは日常生活の中で身に付くから別に考えなくてもすぐにわかるそれと同じようにカルト宗教団体というのは難しいことは言わない。ご利益になるとかいろいろいいことがあるとかそんなことしか言わない。だからこそ人を集めることができるのである。
そこにはまともな求道者などはいない。そんな人はかえって邪魔ものであり必要ないのである。一体法華経信者であれキリスト信者であれカルト教団などに一人もいないという不思議がある。
それが全く理解できないのである。

ただそういう人たちも池田大作氏がカリスマが死んだとき憑き物は取れたように目覚めるかもしれない。それで一部の人が池田大作氏を公然とこきおろしている居るのに驚いた。その人は学会ででも身も心も捧げていたから逆に人生を奪われたとしてあのように池田大作氏をこき下ろしているのかとなる。
他にもカルト宗教団体で辞めた人はだまされたことを知ってその内情を暴露しているのである。いずれにしろ創価学会はもう維持できるのかと思う。後継者も育たないし会員は増えないし票も減るだけだとなると自民党からもやがては捨てられる。

●宗教団体でも御利益があるのは主に幹部

では別に宗教団体なのだから信仰が第一なのだからそれでもいいとなるが実は創価とわは様々なこの世の野心を持った人たちが欲望を叶えるものとして団体としてあったからこそあのように会員が増えたのである。信仰を求めて入ってきた訳ではないのである。その信仰だって御利益だけが目的であり本来の宗教とは何の関係もないのである。だから御利益がなくなれば簡単に宗教だって捨てるのである。ただ宗教の面倒なのはそうなると地獄に落ちるとかバチ当たるとかな呪縛されるから簡単にやめられないのである。ただ一体バチ当たるとか地獄に落ちるとはどういうことなのかそれ自体がわからない。

なぜなら創価の人は何百万人もいるのだからその中で不幸なに死んだ人とか不幸になる人は膨大な数のである。ではどうしてそうなったのかとなる普通の社会でも必ず不幸はありそれがただ何百万人もいれば当然比例して不幸な人は必ずいるいる。近くでも40くらいの息子が病気で死んでその後母親も死んだ。それは創価に入ってからまもなくそうなったのである。そんなこと他にもある。学生のとき活動していた人が交通事故で死んだ。池田大作の息子も30くらいで死んだ。私の父親違いの兄も40歳で交通事故で死んだ。家族にはなにかかにか不幸があるしみんんな病気にならない人もいないのである。それはどうしてかわからない。ただいちいちそれを宗教で判断できないのである。そんな不幸など山ほどあるのである。ただ確かに御利益を得た人はある。私を折伏した人は家族は議員になりそれで大学までは入れたとか言っていた。

でもそんな幹部になる人は一部であり不幸な人はやはり多いのである。つまり創価は貧困ビジネスでもある。不幸な人たちから貧困者から搾取するともなる。そこで票を集めて金になった人は確かにいる。でも御利益を得た人がいたとしても全部がそうはならないのである。
そのカラクリが分かれば馬鹿らしいとなりなぜ献金したのかとなりついには統一教会のようにその恨みを晴らすために安倍首相は犠牲になってしまったのである。つまりカルト教団に入って家族が崩壊したりした人は相当に多いのである。その恨みを持った人が最近あからさまに批判するようになったのである。
いずれにしろ創価は終焉しつつある。カルト教団のこともその内部が内部者から批判されてその実態が明るみに出るからいずれは終わりになっていくだろう。ただ最後の悪あがきが何があるかもしれないそしてまたそこに集めた金が莫大でありその奪い合いが起きてくるかもしれない。もはや維持できないし分裂したり遺産争いみたいなものもにもなるかもしれない。それがまさに罰であり地獄になるということである

●文明社会に狂気を生み出す―宗教は山岳宗教の天台宗が始まり

集団的にカルマを作り出したのがカルト宗教団体でありそれが巨大なるがゆえにその負の影響も大きなものとなる。カルト教団がなぜ現代に生まれたのか、それはやはり文明自体にあり連関を失ったアトム化した社会でつながりを求めるためにナチスのようにハイルヒトラーとかハイル池田になってしまったとも思う。池田大作はどういう人物かと言うと自らを巨大な人物に仕立て上げるためにこの世の王となるために下々の者を利用したのである。
なぜなら学生部の会合でタバコをポンと投げて配ったという。それを喜んでいたのは学生部の幹部である。もちろん池田大作氏に会っただけで有頂天になっていたのかもしれないただ池田大作氏が力を持ったのは強大な権力を持っていたからであるその権力があるからこそ自民党も近付いたしその内部でも池田大作氏に近づけば高い地位を得て教団内で権力を持ち外部でも権力をモデルと言うことでそうなったのである。

池田大作の人間性は人格は関係ない。そんなものに惹かれる人など今の世にはいないだろう。ただ権力が得られるということで野心家などがそこに集まってきたのである。だから普通宗教というと修行者はなっているのが普通であった修行者場なっているのは普通だったそれで日蓮親鸞でも比叡山で修業したのでもともと日本は中国から輸入したのは天台宗だったので。天王台というと山岳宗教でありそれは日本だったら山伏とかにその伝統は受け継がれたのでつまり山を聖なるものとして修業したとなでもカルト宗教団体は創価だったら東京の団地から生まれたようにそれは仲間づくりであり全く宗教とは関係ないものだったのである。ところが山になると人はいない静寂の世界なのである。
都会の大衆とか群衆とかはいないのである。沈黙する荘厳な山に向き合っているのである。カルト教団の特徴は常に大集団となり
示威行動をして社会に圧力をかける存在である。

だからそこで宗教など求める人は一人もいなかったのである。ただそこで御利益語り仲間ができるということであれだけの人数になったのであるだから宗教など求める人は一人もいないのである。宗教を看板にしているから宗教を求めているそういう人たちと思ったら全然違う普通の俗界にいる人たちをより欲望を追求する御利益を追求する人たちだということがその組織団体の実態だとするとき全く何が何なんだとか理解不可能となってしまうのである。ただ確かなことは発達障害の人でも利益になることは何も考えなくても利に敏いのである。それと同じように御利益になるということだけでこれだけの人数は入ったということは理解できるのであるだから御利益がなくなれば当然もう雲霧消散するのである。

ともかく人間社会というのは時代時代によって狂気が生まれる。明治時代のえーじゃないかえーじゃないか騒動もそうだった。また太平洋戦争でも天皇を神としてそのために日本は必ず勝つとして300万人も死んだ。これも狂気的なことであった。人間社会は必ずこうして狂気を生み出す。それは江戸時代までは少人数で狭い範囲でそういう悪徳宗教人がいたが何百万人にも拡大するということはありえなかった。なぜそうなったかというとナチスが
ラジオから生まれたとか通信の発達でマスコミが生まれそのマスコミによって洗脳された結果として大衆社会がありそれが狂気を生み出したのである。

だからカルト教団というのも文明が生んだ狂気的集団だとなる。でもナチスのように国民全員が狂気になればそれは正常なのである。そうかでもナチスのような勢いがあったから恐怖するものだったのである。カルト教団とは文明の病理的現象であり本来の宗教とは何の関係もないものだったのである。

ただ共通していることは一人の教祖が偶像となり神となり仏となりその下に上下関係の組織が作りそれでこの世の権力を得るために運動しているということでは共通していたのである。必ず教祖がいてそれが偶像化して崇拝する。それが今組織的なものとなり宗教団体自体が批判も出来ないものとなったのである。それが極端化したのはオウムであった。宗教の名のもとに殺すことさえ正当化されていたからである。それはまさに狂気の集団だった。創価は庶民を相手にするからそういうことがなかったにしろやはり共通なものがあったのである。

posted by 天華 at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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