2023年11月29日

人間が時代時代に残すものー大衆化時代の残したもの 【マスコミとカルト宗教団体】


人間が時代時代に残すものー大衆化時代の残したもの

【マスコミとカルト宗教団体】

●時代時代で人間が残すもの

人間を見るとき最後になると人生の終わりになるとその人の一生ががなんだったのだろうと自分だけでなく他人でも見るようになる。それは別に特別な知識人とかでもなく普通の人でもみんな私の人生とは一体なんだったのだろうかとか何の意味があったのだろうとか必ず振り返るのである。
それと同じように人間の歴史を見たとき時代時代に残すものはある。例えば奈良時代になったと仏教を見れば奈良の大仏が作られたように鎮護国家の仏教であり次に平安時代になると貴族の仏教となり鎌倉時代になると民衆の仏教になったとなる。
また鎌倉時代は侍が勃興してきた時代だから侍に適した仏教として禅宗が盛んになった。でも民衆の仏教として日蓮宗と念仏宗が普及した。なぜ普及したかというとその頃字を読める人は極めて少なかった。となると布教するのにも難しいことを言っても理解されない。

だからただ題目を唱えるとか念仏を唱えれば救われるとか病気でも治るとかそれで普及したのである。実際に仏教というのものはどういうものかとか深く理解して信仰したというわけではないのである。
それで仏像でも鎮護国家の奈良の大仏となると大きいということで編集はその時民衆は大きいということでそれが威圧するように仏教の偉大さを示したのである。それは初期の段階では仏教というのは何かわからないから大きな仏像を作ってその偉大さを示して民衆に従わせたということである

とにかく人間は個々人でもそうだが一生に残すものがある。時代時代でもやはり残すものはある。それで奈良時代とか平安時代とか鎌倉時代とかその時代を特徴づけるものとして歴史がある。江戸時代になると侍の時代でありそこでもやはり侍の模範として武士道が生まれたのである。そして侍の時代が終り明治維新になり明治は明治で残すものがあった。そして大正時代昭和時代と戦前でも残すものはあった。ただ太平洋戦争では300万人も死んだので一体その意味はなんであったのか何を残したのかとなると難しいとなる。

●戦後の焼け野原から生まれたカルト宗教

戦後も焼け野原となったがそこから日本は復興した。その焼け野原の時に生まれたのは今の団塊の世代である。その世代は高度経済成長を成し遂げて豊かな日本を創ったともなる。ただ今はそれが高齢化して負担となっているのであるがやはり戦後高度成長を作り一時代を築いたということがある。ただ宗教から見ればカルト宗教全盛時代になった。なぜカルト宗教は戦後に増えたのかというと何か戦争に負けて精神的支柱を失ってカルト宗教でも頼るようになったのかとなる。

ただ現在のカルト宗教というのは世界的共通性があるかもしれない。例えば創価学会の会員が一時うなぎ上りに増えた。他でも幸福の科学とかオウムとかが社会で大きな勢力と化したのはやはりこの時代の一つの現象であった。なぜならまたそれは都会化現象とか大衆社会化現象とか社会自体にカルト宗教を育むものはありそれは例えば最近死んだ池田大作の能力だけではない。池田大作を作り上げる人たちがいて池田大作あり得た。それを作り上げたのは社会の人たちであり団地の宗教と言われたように地方から集まった人たちが新たに仲間づくりをするために宗教があったとなる。

それは東京のような巨大都会化現象と関係して生まれた。この都会化現象も世界共通している。巨大な都市が世界中で生まれているからである。そこで人間は巨大なビルを見上げて蟻のように卑小化されてしまったのである。そこに生まれたのは群衆であり大衆である。そもそも大衆というのは戦後に特に顕著に現れた現象である。それは民主主義にしてもギリシャのポリスのような一二万の規模ではない。議員に当選するにしても何百万票が必要なのだからその数を得るにはどうするのか。それは大衆を相手にすることであり一人一人の人間よりマスを相手にすることである。そこからマスコミがそのマスを相手にして巨大な権力を持つようになったのである。六局のテレビ局が独占放送しているのだからその影響力はあまりにも大きいものだったのである。マスコミは大衆と一体化して権力を持つようになったのである。

●テレビの絶大な影響

ナチスがラジオから生まれたということを言う人がいる。ラジオでさえそれだけの影響があったとすればテレビの影響はどれだけ大きかったかを知るべきである。子供の時テレビがどれほど人気がありテレビの前に人々が群がっていたかを知るべきである。テレビで放送された相撲であれ野球であれそれが人気になったのはテレビの映像で放送されたということであったのである。それがラジオであったらそんなに熱狂しなかったのである。

人々はテレビに毎日かじりついて見ていたのである。そのテレビがお茶の間にあるというときその影響は絶大なものだったのである。そしてNHKの影響は一番大きなものだったのである。だから選挙でもテレビに出る芸能人が出れば名前が知れ渡っているから中身はなくても当選することがあった。それはテレビの影響でそうなったのである。つまり戦後は高度成長がありテレビが生まれマスコミが絶大な権力を持った時代だったともなる。でもそれもインターネットが生まれて一つの時代がやはり終わりつつある。でもその期間は50年とか長かったとなる

いずれにしろ現代社会の特徴は大衆社会だということである。民主主義と言ってあまりに数が多いので数で決まるのでその数も百万単位となると当然大衆を味方にしなければならない。
そしてこの大衆というのが何者なのかそれを知るべきだとなる。なぜなら大衆というのはこれまで存在しなかったからである。江戸時代まで村民というのは存在したでも大衆は存在しない。また民衆というのも存在したその民衆は大衆とは違う。だから大衆とは何かということが現在の問題を解く鍵がある。大衆とは何か規範とかモラルとかそういうものもを追求してない。貴族社会でも規範がありモラルを要請した。江戸時代でも侍がいて武士道が生まれたようにそこに社会の模範とするもの侍が示していたとなる。

●大衆は存在しない時代―市民が存在した

ヨーロッパでも大衆は存在しなかった。例えば市民というとき中世の5、6万規模の城壁に囲まれた都市に住んでいた人が市民である。パスポートにあなたの住んでいると市を記さねばならないがそれはどこの都市に属しているかということでそれはヨーロッパの都市国家から生まれたものであり日本にはそもそもそうした市民などは存在しなかったのである。だからシティズンシップとか市民の共同意識は存在しなかった。日本だったら村はその共同体の一員として存在した。文明というときもcivilizationっていうのはシビルは市民のことなのである。でも日本にはその市民がいなかったともなる。

いずれにしろ現代を特徴づけるのは大都市であり大衆でありグローバル化した社会であり人々は無数の部品と化したものとなった。それは世界で共通化したものである。だからこそその大衆がナチスを生んだのでありヒットラーが生まれたのはヒトラーはだけではない。それを作り出すものは現代社会に大衆化した社会にあったということである。

日本でカルト宗教は増えたというのもやはり大衆化の原因があった。特に創価の場合はそういう傾向が強かった。それを象徴したのが団地の宗教だったということである。都会の団地から生まれたものだったからである。池田大作が死んだがなぜそれほどに持ち上げられたのかといえばまさにヒットラーと同じく我々自身の中にヒットラーが居ると同じように池田大作も我々自身の中にいて大衆が生み出したものなのである。本来の仏教徒は何の関係もないのである。
つまり池田大作とはそれを崇拝する人間は池田大作と似たものでありコピーなのである。かルト教団の場合その教祖とそのコピーが会員となりただ数を増やして権力化して社会を牛耳るということが目的化していたからである。ただそれも池田大作の死亡と同時に終わりを告げつつあるともなる。

ともかく時代時代に作られ残すものがある。でもその時代に一時的にもてはやされても泡のように消えていくものもある。。個人個人にして死んだ時点からたちまち忘れられる。そして本を読んでみるとその著者も死んでいる人が多い。でも本だけでも残した人は良い方になるかもしれない。死んだ時点でその人が存在したかどうかも分からなくなるのが普通である。

でもまたカルト宗教団体のように一世を風靡してそれが後々まで残るかとあとそれもない。それは一時の流行り病のように流行してあとは忘れられるとなる。もし百年後にもその本はみんなに読まれて価値あるものとはならずはほとんど消えてしまうのである。だからわからないのなぜそんなに人々がそんな価値ないものに労力と金を費やしたのかどうなる。それが何か人間社会の不可解さがある。

戦争にしてもなぜ300万人も死ななければならなかったのか。その意味もよく分からない。でもそんなに人間が無意味に消耗されているものなのかとなる。現実はやはり今でもカルト宗教団体のようにただ数を集めて消耗されるだけだと思うなそこに何の意味があるのか五十年後百年後にはそんなものは消えて何も残ってないとなる。だからあの騒ぎは何だったろうな何だったのかと振り返るのである。

●大衆に反逆したアウトサイダー―単独者

逆にその大衆社会を強烈に弾劾したアウトサイダーが歴史に残るともなる。キケルゴ―ルとかニーチェとか上野霄里(しょうり)とか単独者がそうである。ただその人たちは生前は注目されないということがある。大衆社会で注目されるのは大衆に媚を売り低俗な人だからである。だからこそ会員が増えたのである。結局一票としてカウントされるだけだとなる。その人がどんな人か問わない、一票になればいいだけなのである。

そして大衆は文化を残さない。一方で民衆は民謡とか他にも文化を残した。万葉集でも民衆が参加して作られたものだからである。大衆は何も残さない文化も残さない。その大衆を操作したのはやはりマスコミでありまさにマスを操作するのはマスコミであった。マスは文化も作らないし何か規範とかモラルとかを作らない。だからナチスとかになり膨大な人間が意味もなくその生命すら消費されたとまでなる。それはまた共産主義国家でも起きた。それも民衆を相手にするというよりは大衆を相手にして権力化することだったからである。そのときそこには市民は存在しなくなっていたからである。

共産主義国家で存在したのはプロレタリアートであり労働者である。その労働者が団結して資本家を倒せと言うしそうだったのである。そこで労働者といっても膨大な数が居るからやはり数として労働者も数えられて消耗されたともである。人間は資本家と労働者とか分類できないものがある。
人間はやはり何かアイデンティティーを持つとき少人数であり狭い範囲でないとできないと思う。だからグローバル経済とか情報社会でもあまりにも広い範囲であり膨大な情報が入ってくる時もはや処理もできないのでそして常に陰謀論になるのはその世界のことなどとても理解できないからである。だから常に理解できないから陰謀論になって終わるのである。だから何が正義なのかわからない、断定することは危険である。

ロシアは侵略者で悪いとかイスラエルは子供まで殺している虐殺者だとかまたハマスはその非道なイスラエルと戦ているというのもわからない。なぜならハマスというのも相当に一方的思想も持っていてイスラエルを殲滅するとしているからである。ハマスもまた是認できるものではないのである。ただ確かなことどっちが悪いとか簡単に決められないということを知るべきである。

posted by 天華 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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