地名は方角地名が基本ー相馬市の日下石(ニッケシの由来)
【東は明るく西は暗い感じになる―日本海は暗い】
相馬藩の北斗七星の旗−黒い●は星でである
●日が昇る方向は明るく沈む方向は暗い
方角を知る一番わかりやすい方法は日の昇る方向と日の沈む方向を知ることである。
遣隋使の小野妹子が、持って行ったとされる書簡が「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)で始まります。
これはただ方角を正直に言っただけである。とにかく外国に行ったりすればあなたはどこから来たのか?それをまず尋ねられる。
Where are you from?と尋ねられる。それで外国に行ったら日本だと伝えるのだがそうした国がわからない時代には何か目印になるものが必要になる。だからイスラエルのへブル人という意味は川の向こうから来た人という意味である。川が目印となってその方角を知るということにもなる。外国の川は必ず境界にもなっていたからである。だから川を越えて来たというときその川がどういう川か知っているからそう伝えたのである
旅をしていると一番分かりにくいのはこの方向が分からなくなり道に迷ってしまうのである。それは近くでもそうだった。飯館村は山に囲まれているから海が見えないから東がどっちなのだかわからなくなる。それで東の方に行こうとしたら西に向かっていたのである。なぜそうなったかというと太陽は沈む方向に行ったから沈む方向は西だと気づいたのである。山に囲まれていればこうして方向の目安となるものは分からなくなるから近くでも迷ってしまうのである。
西となれば日が沈む方向になる。東となれば日が昇る方向になる。でもそれが分かりにくいのである。ただ東と言う時日が昇るのだから何か明るいイメージを持つ。会津の東山温泉があるところは東にあるとしても山の陰にあり明るい感じにも思えなかった。でも京都だと東山というのはそこから日が昇る山であり明るい感じなのである。西山となればそこは何か寂しい感じになるのである。
城を中心にして方角地名が名づけられた
城を中心にして方角地名となった。喜多方は会津の北に発展したから北方が喜多方になった。
●日本海は寂しいと見ても古代は栄えていた
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 柿本人麻呂
東はやはり太陽が昇るから明るい感じになる。でも西となると陽が沈むとなり淋しい感じになる;だから日本海は日が沈む場所であり月がにあっている。
寺泊出雲崎行くや月あわれ
日本海秋の夕陽や漁村古る
日本海は海に夕陽が沈む。そして漁村も古いとなる。
名月や膳にすゑたる東山 支考
京都では東山となるとこのように身近なのである。でも京都を旅して東山がわからなかった。だから陽の昇る方向に旅したら注意すべきだとなる。
ただ地理的にはそうであっても歴史的に見れば日の沈む方向はさびれていたという感じにではない。日本海側に日は沈むからそこは今では裏日本隣寂しい感じになる。
でも古代からむしろ日本海の方が開けた栄えた場所にもなっていた。なぜなら韓半島とか中国大陸と向き合う近い場所でありそれで出雲の国引き神話が生まれた。その国とは韓半島の国のことである。地理的に見て太平洋側より近いのだから当然ひらけた場所になり韓半島からの渡来人もきて返って先進的な国でもあった。
なぜ今から見ると島根とか鳥取は人口も少なくさびれた感じになっている。
ではなぜ出雲の国がありそれが大和の国と互角に並ぶ強国となっていたのか?そして出雲弁が東北弁は似ているというとき東北が蝦夷と言われた国でありそれは出雲とも一体化していた国だったからだとなる。なぜ蝦夷というのは強敵になったかというと韓半島からかやとかから渡来人が入ってきてその人たちが蝦夷に加勢したということがある。だから大和王権の強敵になったのである。
●相馬市の日下石(ニッケシ)は日が沈む場所?
津波で日下石の近くまで海になった
日本語のニシは、「去方」(イニシ)の約であろうという。イニが去(イ)ヌという動詞の名詞形で、シは方向を示すので「日没の方向」の意で西を捉えた語というわけである。
これで気にかかるのはなぜ日下石(ニッケシ)という地名がアイヌ語説もあるがこれは西の意味とも取れる。それが津波でその日下石の前まで海になった。太陽はその日下石記の方に沈んだのである。
ではなぜそういう地名がついたのか?つまりそれは海の方から名付けた地名だったともなる。それは海からやってきた海洋民族が日の沈むところを日下石としたともなる。その海洋民族とは何かといえば相馬地域に多い綿津見神社と山津見神社が一対となった安曇族のことである。その後裔の人たちが名付けたものと推測される。なぜならもし日下石が西という意味があれば海から船で来た人たちがそこを日の沈む場所としたからである。
ただ海から離れた所から見れば海の方は日が昇る所になる。
どこからみるかで反対になるのである。
ただアイヌ語に関連しているとなればまた違ったものとなる。
なぜ方角が大事なのかというと例えば砂漠であれ草原であれ遊牧民が移動するとき方向が最も大事なものになる。方角がわからなくなると方角を誤るとそれは死にも繋がっている。だからこそ砂漠の国では星が星を見て方向を知る。だから北斗七星北極星が信仰の対象にもなった。北辰菩薩とか妙見様とかはその北極星のことだからである。相馬藩の旗印もその妙見信仰から来ていて北斗七星と北極星なのである。それはやはり中国からまた中国韓国を通じて韓半島を通じて日本にもたらされた信仰でもあった。一定の土地に定着して住んでいる人なら方向はそれほど大事にもならないからである
妙見菩薩は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる
●縁(えにし)ー江西、愛西などの意味と語源
私の魂は子の風景のもとに安んじて返ってくるだろう、それはかつてこの島影にたどりついた民族の心象というものがあったからだろう
「海やまのあいだ」にある狭い土地ーそれを海岸線と言ってもいいだろうーにこそ我が民族の「ふるさと」があったのである
海岸線の歴史ー松本健一
江西(えにし)は江と西が結びついた。当て字である。いには去るという意味でもある。太陽が去り沈む所だとなる。
縁(えにし)とは海洋民族が縁を結んだ海岸のこと? (日本の海岸線が日本のアイディンティティを作った場所)
江(え)とつく地名が多すぎる。ということは蝦夷(え)でも江なのである。南相馬市の鹿島区の海老(えび)はエヒなのである。江垂(えたり)は六号線まで江垂であり海が入りこんでいたのである。江が垂れると垂れるように海が奥に伸びていた。だから桜田山に魚の骨などが発見されたというときその入江で魚など取っていた
新地の手長明神の伝説は有名である。巨人が長い手を伸ばして貝をたべていた。それは縄文人が貝をとりたべていたことが基になっている。現実に高台に貝塚があったからである。新地の地形は山が海に迫っているからその伝説は実際の生活が反映したものだったのである。蝦夷(えぞ)のえは水と関係しているかもしれない、えとつく地名はいたるところにあるからだ。水のあるところに人は住むからである。江戸(えど)でもエがついているから水と関係していたとなる。
古代でも海が陸地に深くはいりこんでいた。原町の江井とか小高の井田川とか江とつく地名が多い。そこも入江になって津波でそこが海になったことで驚いた。八沢浦も入江であり津波で元の入江になったことで驚いた。
とにかく相馬地域には松川浦に山津見神社があり和田という地名は対になってあり綿津見(わたつみ)のことである。海洋民族の安曇族の後裔が入って来て開拓して住むようになったことは確かである。海洋民族にとっても方向を知ることが大事である。海では方向が分からなくなるからである。
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