町場の地名の由来ー歩く時代に感じたもの(秋の蝉)
【左沢(あてらざわ)小国の地名由来ー運ぶことが簡単にできなかった時代の感覚】
領内の村々から農産物を運んできたり,自給できない諸物資を購入したりする場として,
この城下町周辺部にできた町場が利用された。
●日立木の町場の地名由来
相馬市に城下町があるとき日立木からは近い。すると日立木から町場とあるときそこに周りの農家から農産物とかが集まった。それを相馬市の城下に運んだ場所となるのかもしれない。城下町には農産物など生産していないから運ばなければならない。それで鹿島区の横手から塩を相馬市までリヤカーで運んだという女性を知っている。相馬市までは15キロもありそれをリヤカーで運ぶとしたら往復30キロにもなり大変な労働になっていたのである。ただその当時運ぶというときは車もないのだから馬車とかになりそれも無いとしたらリヤカーだったとなる。
ともかく交通が不便な時代はものでも運ぶことが容易ではない。だから狭い範囲で自給自足していたのである。そうなれば贅沢もできない。近くにあるもので満足するほかなかったのである。
だから今のように世界中からいろいろなものが入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。
要するに狭い範囲で自給自足が基本であり遠くへは行かない行けないのである。それは車ない私自身が理解できる。自転車になると原町でも8キロくらいにしても結構楽ではない。ただ電動自転車のいい物を買ったのでそれだと前の自転車より倍速になったので行くことは楽になった。
でもとても車のようには簡単には行けないのである。そうなると近くにあるもので満足するほかない。でも相馬市でパンの専門店がありそこでいいパンを売っていたがそれを買うということは簡単にはできないのである。
●なぜ小国の地名が多いのか
それでなぜ日本には小国という地名が多いのか?それは狭い範囲が一つの国でありそこで自給自足するほかないからそういう地名が付いた。そして村と村すらまともに交わらないし行き来していないのである。
だから飯館村の大倉と佐須村が合併するとき明治になって合併するとき民情は違うからという理由でできないとなっていたのである。距離として5、6キロくらいなのかそんな距離でも村と村が離れていれば村人同士が物のやり取りにしても簡単に物が運べないからできないのである。
それでこの辺の村でで隣から麦付きの男がやってきたがその人は蛇だったとか話が残っている。つまり隣の村見慣れぬ人はそんな風に見られたということである。
それだけ狭い範囲ですら村と村ですら人は交わって交わることが稀だったとな。だから物すら周りにあるものだけで間に合わせる他なかったのである。現実に燃料は炭焼きであり何か外から買うというものはまれだしできなかったのである。もちろん今のように外国から何でも入ってくるようなことはまったくない。そもそも農家一軒で納豆でも作り栢の木から油をとり鶏を飼い卵をとり水は井戸水であり燃料裏山の木だったりまりにあるもので自給自足で暮らしていた。だから買うということはしない生活である。
今とはあまりにもちがっていたのである。
●なぜ川の側に四大文明がうまれのか
そういう生活というのはグローバル化とかであまりに変わってしまったので理解できなくなったのである。日本というのは山が多くて坂が多いから何か物を運ぶにしても向いていないのである。四大文明が大河の側に生まれたというときそれは川が運河のようになっていてそれが道になっていて物を運べ運ぶことができた。それで大河のほとりは大きな文明が生まれたのである。日本の外国の川は日本の川と違って運河ように流れているからである。だからその岸辺に港ができて都市が生まれたのである。
ともかく運ぶということは容易ではなかった。この辺の塩の道にしても松川浦から塩を取って飯館村まで運んだのだがそれもかなり沢沿いの危険な道でありそこを通ったことがあるが細い道でありちょっとでも道を外れたらしたの沢に落ちてしまうようなところだった。それで牛転がしとと座頭転がしとかの地名が生まれた。牛は信州では塩を運ぶのに使われていた。そして途中で栃窪村に助の観音があるのそこでで泊まったりしたからでらる。松川浦から飯館村まで運ぶのが大変な労力だったのである。
でも塩は欠かせないものであり貴重なものだから日本全国に塩の道があった。あるところでは外国でも塩が貴重であり塩と黄金が等価で交換されたとこもある。またローマ人の兵隊の給料のサラリーとは塩のことだったのである。それだけ塩というのが貴重である欠かせないものだからそうなった。それは世界的にそうそうであり塩というのはそれだけ貴重だったからそうなった。生活に欠かせないものだからそうなったのである。だから人間の生活を見るとき塩から見るとき共通性がある。ただ岩塩というのはあり山中でも取れる塩がありそれがこの辺とは違っていた。
●左沢(あてらざわ)の地名が語るものーオックスフォードの地名
とにかく一つの地名からその土地のことを読み取ることがある。気になったのは左沢(あてら)町場とかいう地名が山形県の近江町とかにある。その左沢とは最上川が流れる向こう岸を指していた。その向こう岸に町場がある。そこに人が集まり何かものも集まる場所だったのかとなる。その左沢という地名はやはり向こう岸に行けば町場があるということでそう言う名前がついたのかもしれない。日本では川というのは側であり川そのものではなく向かい側ということであり川を渡り向かい側に行くということでそのことが意識されて地名化したのである。どうしても川が交通の障害になるから向かい側というのが意識されたの意識されてそういう地名がついたと思う。
山形県の大江町の左沢という左沢町場というときそれは最上川の船運と関係していたかもしれない。船で行き来がありものを運んでいたからその船着き場などが街の形成に関係してくる。
そこが町場となったということもあり得る。いずれにしろ地名からその土地を読むということはできる。でも相当に想像力を働かせないとできないともなる。車社会でありあまりにも便利になった結果そうした隣の村人すらが交わらないとか物も運べないとかそういうことが理解できなくなったからだ。だから人間的感覚で歩く感覚とかでその土地のことを体で理解することができなくなったのである。それは例えば距離的に近くてもある。
オックスフォードの地名は、古英語で「雄牛(oxen)が渡ることのできる浅瀬(ford)」を意味する「オクサンフォルダ(Oxanforda)」から来ています。これは、牛が川を渡ることができる浅瀬があった場所に由来しており、その地理的特徴が地名に反映されています
これもやはり川が障害となり向こう岸に渡るにも浅瀬が必要であり牛というのも生活に欠かせないからそういう地名になったのである。
とにかく外国の川は広いからそこを渡るということは容易ではない。そして橋を架けるにしてもその労力が簡単にできないし技術的に簡単にできないから川を渡ることは相当に苦労したとなる。だからこそ川を挟んで戦争のとき今でもウクライナとロシアの戦争でドニエプル川を挟んでそこが敵がリバーはライバルになっていたのである。そういう地形は変わらないからその地形がカルマとなって同じようなことをつづけているのである。
●大倉から飯館村へ越える峠でいつも秋の蝉の声を聴く
江戸時代であれ歩いて生活していた時代のことは理解できなくなったのである。だから現代では歩いた旅もしないから歩く感覚で作られたこの文学作品でも何でも理解できなくなったのである。芭蕉の奥の細道にしても細い道を辿ってようやく平泉についてそのとき5月雨がふり降りしきる雨の中に平泉の金色堂が残されていた。そして五月雨の降り残してや光堂と俳句を作った。
それははるばるみちのくの奥まで旅して感じたことであり今なら新幹線で東京から3時間くらいで来るとしたら感じることはまるで違ったものとなってしまったのである。地の果てのように来た感覚は無いからその見方もまた浅薄なものになったのである
現実に近くでも飯館村をまで行くのも大倉からかなりの坂を上らなければならない。そこで私は自転車で行っていたからその坂を登るのは容易ではなかった。その時どうしてか飯館の手前で村に入る手前で秋の蝉が鳴いていた。
飯館へ峠越え行くその手前秋の蝉鳴く我が休み聞く
どうしても途中で休む。すると秋の蝉が鳴いていたのが聞こえる。すでに秋になったのだなと感じる。それもすでに百回とか行けばそこでいつも休むからそれが心に残っているのである。これが車だったらただ一気に峠を登り飯館村についているから感じないのである。つまりあまりにも便利になって人間は感じなくなっているので人間の五感というのが働かなくなっているのである。ただ車がひっきりなしに行き来して残されるのは騒音だけだとなってしまう
つまり人間の五感は働くなくなるから感じる事もなくなるからかえってその面では自然でも深く感じないし貧しくなってしまったということもある。第一車だと蝉の声など響いても聞こえない騒音を残して去っていくだけだからである。現実にあの辺で若者がバイクをふかしてスピード競争するとか必ず騒音があり騒音社会になっているからである。
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