焼畑から県(あがた)となり米を税として取り大和王権が生まれた
【塩手山から小平、長平の地名考察】
平の地形
●塩手山周辺の地形ー塩はしおれる、しぼむ地形
塩手山とあるがなぜ塩手とついたのか?それが不思議になる
これは塩とは関係がなく地形と推測した。なぜなら塩はしぼむからきているまたしおれるというのも共通している。地形をみると広い平な土地がなくまさにしぼむ地形なのである。そのなかに小平とか長平とかある。そこはそれなりに平なのである。こういう山間の地形は平の所が少ない、ただ山が多い日本にこういう地形が多い、だから日本で野というとき山の斜面のことである。原はそれなりに広い平地となる。
我が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも (万葉集)
この入野は山間の斜面の野を奥に入る地域である。そういう地形が日本には多い。
日本の地形はそもそも山が多く平らなところが少ない。となると山の斜面でも平らにしてそこ畑なり田んぼにする必要があった。
それで飯館村の大倉から木戸木(ことぎ)ではそこも狭い土地しかない、そこで土地を平らにするのに苦労したとそこに住んでる老人が畑を耕して言っていた。
つまり日本ではこうして平な土地が少ない。すると平らにしなければ畑も田んぼも作れないのである。そのために平という地名は各地にあるがそれは人間が生活するために平にした人為的に人間の力で作られたものだとなる。だから平氏というときまさに平にしてそこで畑を作り人たちが得て大氏族ななったとなる。
●焼畑から水田が生まれ県【あがた】となる
そして火+田となっているのはそもそも畑は焼畑であり火が関係していたからである。
そして注意しなければならないのはその焼畑を教えたのは安曇族の系統でありこの辺ではその後裔の八木氏である。この八木氏は地名化している。八木原とか八木沢峠は八木氏のことである。
つまり人名が地名化したのである。また石戸村に犬飼があり他にも犬養という地名がありその跡を残している。安曇族とは航海術もももっていたしまた焼畑の技術も持っていて最初にこの地に入植したのである。山津見神社と綿津見神社は安曇族の祭る神なのである。これは対になって各地に残っているからである。
佐須村の佐須とは焼畑のことである。他にも飯館村には焼畑関係の地名が残っている。とにかくあれだけ森が多いのだから焼畑には適していたのである。
3〜4年作物をつくると耕作を放棄して休閑するのが普通で、1戸当たり全体で15〜20ha程度、入会地などに占有している土地の中を、常に1.5ha内外の畑が転々と移動していくのである。
そこで栽培される作物は、アワ・ヒエ・ソバ・ダイズ・アズキをはじめ、イモ類・麦類・カブ類・トウモロコシ・ナタネ・エゴマなどときわめて多種におよぶ。
平安後期には水田はほとんど例外なく小さな谷ごとに拓けた谷地田で、湧水や雨水などを利用しており、下流のやや開けた沖積低地では開発は進んでいなかったことが、現在の地名などに当時の文書に記された名(権利が確立した土地の占有者の名前)が残っているところから明らかになっている。
大地の刻印
古代、大和(やまと)国家の地方制度。国造(くにのみやつこ)の支配する国よりも、普通は狭い領域をさし、国の下の単位となる地方もあり、県主(あがたぬし)の支配下にあった。県がいつごろ成立したかについては、大和王権が成立した4世紀から5世紀とみる説、および大和王権が、強大な吉備(きび)(岡山県)、大和(奈良県)、筑紫(つくし)などの豪族を打倒した5世紀から6世紀とみる説がある
水田根菜稲作のほうが、焼畑に比べて豊凶が極めて小さく、安定した収穫が得られた
という点から、稲作につながったのではないかと思う。
何年も続けて栽培できる水田のほうが場所を変えなくてすむので、メリットが大きい
と思う。肥料が必要ないという点から、水田根菜栽培のほうだと思う。なぜなら、最初においては肥料という発想はあまり出てこないと思うからである
稲作の起源について、焼畑雑穀栽培と水田根菜栽培のどちらが、関係深いと思いましたか
●焼畑は定着せず移動するからその跡に八木氏が地名化する
焼畑は森の木を燃やしてその灰を肥料とする。だから移動してゆく。なぜなら木を燃やさなければ肥料にできないからである
それで安曇族の後継の八木氏の跡をたどるとやはり焼き畑をして移動していたのかもしれない。点々と八木氏の地名が残っているからである。犬飼というのもそうである。飯館村の佐須村はまさに焼畑地名である。その一団が石戸村の方に移動してきたのである。つまり転々と安曇族の後裔の八木氏とか犬飼(犬養)氏が焼畑の地を求めて移動したのである。
県犬養東人(あがたいぬかいのあずまびと)こういう人がいた。犬養とは安曇族の後裔であり八木氏もそうである。東人というとき蝦夷の領域であり東北地方に派遣されたのでその名がついた
何年も続けて栽培できる水田のほうが場所を変えなくてすむので、メリットが大きい
これは水田が定着をうながしたということはそこで一つの村を形成して県(あがた)となり国へのまとまりになる前提条件を作ったということである。つまり日本は山が多く最初は山を根拠として発展した。また平地や原があっても湿地帯が多いから山の方が最初の生活の場となった。
相馬藩でも南相馬市の最初の国造は浮田国造でありそれは毛野系統なのである。それは栃木県とか群馬県とか毛野国の領域の勢力だったのである。また飯館村に縄文中期の遺跡が発見されたとき山側に先に人が住んでいたとなり古いとなるからだ
曽布(添)縣・・・奈良市・生駒市・・・添御縣坐神社(論社2社)
山辺縣・・・天理市あたり・・・山邊御縣坐神社(論社2社)
磯城縣・・・桜井市あたり・・・磯城御縣坐神社
高市縣・・・橿原市今井町あたり・・・高市御縣坐神社
十市縣・・・橿原市北部・・・十市御縣坐神社
葛城縣・・・葛城市から御所市・・・葛木御縣神社
大和朝廷の直轄地などの名。この「あがた」という言葉から、(中央への献納物、後世における税、を「あが」と表現することがあったと思われます(「あがた」は「あが(税・租)」の「た(田)」ということ)。
「諸(もろもろ)の国(くにぐに)に令(のりこと)して……県(あがた)邑(さと)に稲置(いなき)を置(た)つ」(『日本書紀』成務天皇五年)。
県となると大和朝廷がすでに税を納めるものとして管理された地域だとなる。
ともかく焼畑は税として納めることはなじまなかった。でも稲作になると税をとして取り安かったのは焼畑は一か所にとどまらず移動するか税が撮りにくい、定着すると税として取り安いとなる
それで国に管理されることになった。東北地域は県が置かれる前に国の直轄領になった。西では県があっても国造(くにのみやっこ)が置かれたからだる。南相馬市の浮田国造がそうである。なぜなら焼畑というときそこから税をとることがむずかしい。
結局今作水田の稲作になったときそれは定着して定期的に税金を取れるようになったとなる。結果的にそうして稲作によってそれが拡大したとき大和朝廷であれ国の大きな国が作られてきたとなる。つまり焼畑とか狩猟採集経済だとなかなか大きな統一国家は造りにくかった。蝦夷という地域は狩猟採集していた人たちでありそれが化外の民とされたその原因が稲作をするものと狩猟採集したいた人たちの相違から対立もしたのである。その人達が蝦夷であり大和朝廷からすればまつろわぬ人たちとなり抵抗したとなる。それは遊牧民と農耕民の対立と似ていたのである。
秋田縣の北部より青森縣に亘るマタギ聚落に嶢畑が多いのはマタギを主生業とし焼畑を副とした時代の名残とも見られる。
北上山地の名子と焼畑とは密接な關係がある。この關係は山形縣や幅島縣の一 部に於てもみられた。貧窮者が山小作にて一 部を
焼畑とし,凶作に供へ、生活を支へるのである。
東北地方の焼畑
そして安曇族の後裔の八木氏とか犬飼(犬養)が地名化しているのはそこで焼畑が行われて跡として残されたのである。
みちのくの山形あがたより東京へ帰り来きたりて虹をいまだ見ず
斎藤茂吉『つきかげ』
なぜここにあがたがでてきたのか、茂吉には古代的志向があったのか原始的心情もあったという不思議がある。
焼畑に由来する地名と姓の多さ
カノ・カンノ
官ノ屋式(魚ノ川)
5.その他
「コバ」は九州地方の焼畑呼称である。
▽コバ・キバ・木場
大木場(東川角)、大木場(西川角)、大コバ(米奥)、コバサコ(平野
:地名文化財(その3月) 「焼畑」
佐須村に飯館村の町長の菅野氏の姓がああるし小林のコバは焼畑由来だったのである、ともかくこれだけ焼畑に関する地名に姓が多いのである。それだけ焼畑がどこでも行われていたからである。
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