2008年09月09日

浪江の地名と土井晩翆の歌

浪江の地名と土井晩翆の歌

●小野田橋の由来

土井晩翆が浪江に残した歌に地名が二つ読み込まれていた。

小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき


ここは板の橋であり大雨がふるたびに橋板をひきあげたり流されていたりした。日本の橋はヨ−ロッパがすでにロ−マ帝国時代から頑丈な石の橋を作っていたのに木の橋でありそれもただ板を渡したくらいの粗末な橋だった。二枚橋とかあるがこれも二枚の板を渡しただけの橋だった。だから橋は常に大雨になれば流されていたのだ。野馬追いの行列の絵巻でなぜ新田川に橋がない、川を渡り野馬追いの行列が通っている。なぜわざわざこんな絵巻を描いたのか?つまりしょっちゅう橋は流されていたのだ。橋がないというのがありふれたことだったのだ。そうでなければわざわざ橋のないところを描くはずがないからだ。子供の頃の記憶でも町から真野川を渡り寺内方面に行く橋は木の橋であり埃が立ち橋は行き来するとぐらぐらゆれたから橋をわたることは怖かったのだ。台風とか洪水になれば橋はしょっちゅう流されていた。流された橋の絵が日本では多く残されている。

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新田川をわたる行列

今は近くに一億円かけた橋がかかっている、これも無駄な公共事業であったがそれほど橋も様変わりしてしまったのだ。この頃に橋を作ることは大きな意味をもっていた。まさに橋は栄と睦(むつみ)を増すものだった。時代によって土木工事の価値も変わる。不便な時代ほど土木事業の価値はあった。今や公共事業の土木事業は税金の無駄使いとされる。時代も変われば変わるものである。児童がここを通るのに難儀したとかありこれは南相馬市鹿島区の六号線にできた地下歩道と比べると児童の交通事故から守るためのものだがそれにしても立派なものである。一見すればすぐわかる。これも8ケ月かくらい工事していたから相当な金がかかった。でもそれほど金をかけて作るべきものだったのか今では土木事業の価値はかえって予算の無駄使いだと非難されることも多いのだ。この小野田橋のような価値が生れないのである。

●田尻原の由来について

田尻原拓きて稲の八束穂のみのりをみるぞうれしき 晩翆


江戸時代に田端村としてできた。田圃の端(はじ)に拓いた村であることから、田端と名づけられたといわれる。

尻とつく地名

http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/49394517.html

この地名の由来は田端とにている。田があったところの尻の原でそこはまだ原野のようになっていた。ここは小野田と隣接して大堀に通じている。昭和6年から14年までこうした原野があり開拓はつづいていた。新田を作ることはつづいていた。ここは大堀村に近くこの辺はまだ原野になっていた。地名からその土地の状態がわかる。土井晩翆が戦後も生きていたとは知らなかった。明治時代の人かと思っていた。仙台の空襲によって蔵書三万冊を焼いた。仙台空襲のとき空が赤くなり相馬から見えたという、意外と新しい人だった。それにしても三万冊は図書館をもつ規模である。物書きは自前の図書館をもつ必要がある。今ならアマゾンなどで古本を買いもつことができる。郷土史もまず自宅に資料が豊富にないと書けないのである。図書館で調べている暇はもはやないのだ。これも一冊の郷土の本を読んで書くことができた。やはり地名には歴史を解く鍵があった。最も身近に歴史を感じるのが日本では地名なのである。
posted by 老鶯 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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