2024年08月26日

南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大和王権の支配 原町区(物部―安曇系海人族)と鹿島区(大和王権)


南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大和王権の支配

原町区(物部―安曇系海人族)と鹿島区(大和王権)

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海人族に属すと考えられる氏族としては安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが代表的である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏、和珥氏も元は海人族であったとする説がある。
竹取物語(かぐや姫)の原型となった作品「羽衣説話」や浦島太郎の原型「浦嶋子伝承(浦島伝説)」は、海人族によって日本各地に伝えられたと推測されている
これらの話は京都の籠神社(このじんじゃ)に伝わる書物「丹後国風土記逸文」の中でも語られている伝承であり、さらにこの神社は「海部(かいふ)氏」という海人族の末裔が宮司(神職)を努めてきた神社でもあるのだ。

海人族は古くから日本に定住しており、弥生時代には既に日本列島で暮らしていた可能性もあるといわれている。

彼らは後に様々な一族(氏族)へと分裂していき、中には川や谷に沿って日本列島の奥深くへと移住する者たちも少なくなかった。

日本の海を支配した集団とは?海人族の歴史や安曇野開拓などを徹底解説

山津見神社(やまつみじんじゃ)は、福島県相馬郡飯舘村に鎮座する神社。別名虎捕山津見神社とも呼ばれる。
頼義の夢の中に山の神が現れ「もし墨虎を捕まえたいと思うなら、白狼の足跡を踏み追うといい」という神託を得た。頼義は直ちに臣下である藤原景道に墨虎の追跡を命じた。藤原景道は、里人である菅野蔵人と今神助右エ門を道案内役として山へと分け入り、険しい山嶺や荊棘の中を踏み分けて捜索をしていると

山津見神社

『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される

『古事記』では、神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。

全国の大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む)の他、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られている。

1973年1月大三島大社講(大山祇神社)発行の『大三島宮』によると、その数はそれぞれ897社、402社、3075社である(次項以降の神社数を含め、『大三島宮』(大山祇神社発行)に記載されている、1972年8月の神社本庁調査に基づく[注釈 1])。なお、この集計では三島神社や山神社を称していても、主祭神が大山祇神でない神社は除外されている。


なぜ海人族に関する神社が多いのか、三島神社は南相馬市原町区にある目立つ神社である。この神社も大山祇神社であり山津見神社になる。それは浪江町の津島に行く途中にも大山祇神社があった。そこは津島へ行く道だから津島の方に最初に入って来たのは安曇系の海人族だったのかとなる。

また京都の籠神社(このじんじゃ)に伝わる書物「丹後国風土記逸文」の中でも語られている伝承であり、さらにこの神社は「海部(かいふ)氏」という海人族の末裔が宮司(神職)を努めてきた神社でもあるのだ。

籠神社は相馬市の松川浦の原釜の海岸にある。また松川浦の和田は綿津見であり対になって山津見神社があった。地名化しているからである。
ともかく相馬地域なぜこれほで海人族と大山祇神社があるのか、
特に綿津見神社が多いのである。原町区の大原にも綿津見神社があった。ただ山に入ると山津見神社になる。山津見神社は山の神でもあるからだ。栃窪にも山津見神社がありそこから塩の道となっていて途中に山津見神社がある。
そして八木沢峠の八木は安曇系の八木氏の八木から地名化した
地名化するということはもともと名づけられていない所に初めて名づけられたとなる。

つまり安曇系の海人族が最初の命名者なのである。長野県安曇は有名である。そこで船の祭りがあり祭りに使う船を作っている人はいた。もともと船を作り操作する人達だったからである。それで南相馬市の鹿島区の寺内古墳から船の線刻画が発見された。それは9人くらいが乗って漕いでいる絵ななおである。だからそれなりに大きな船でもあった
また海人族は船を操作するだけではない農業技術も持っていた
焼畑農業の技術を持っていた。だから飯館村の佐須は焼畑のことであり山津見神社がある。そこは相馬地域の山津見神社の本山にもなっている。

山津見神社(やまつみじんじゃ)は、福島県相馬郡飯舘村に鎮座する神社。別名虎捕山津見神社とも呼ばれる。
頼義の夢の中に山の神が現れ「もし墨虎を捕まえたいと思うなら、白狼の足跡を踏み追うといい」という神託を得た。頼義は直ちに臣下である藤原景道に墨虎の追跡を命じた。藤原景道は、里人である菅野蔵人と今神助右エ門を道案内役として山へと分け入り、険しい山嶺や荊棘の中を踏み分けて捜索をしている

これは墨虎とは海人族の安曇系の神社であり源頼義や藤原景道は後から入って来た人達でありそこで争いがあった
それを案内したのは菅野蔵人とありこれは佐須に菅野一族が早い時期から住んでいたとなる。飯館村の前の村長は菅野氏だったからである。つまり菅野というのは相当に古くから住んでいたとなる。

そして相馬地域の最大の謎は万葉集に残された

みちのく真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

真野郷がありその真野郷は明らかに移動地名である。また真野氏が存在して関わったからなずけられた。
和珥氏も元は海人族であったとする説があるというとき和珥氏の同族系統として真野氏が存在したからである。確かなことは真野氏とは吉備とか近江が発祥地でありその地名が真野氏と姓にもなりこの地に名づけられた。

とにかく最初に相馬地域を開拓したのは海人族の安曇系であるから綿津見神社が多いのである。ただその前に物部氏が支配していた。原町区の桜井古墳は物部氏が関係していた。4世紀のものであり寺内の古墳群は古墳の数は多いにしても桜井古墳のような大きなものはない。ただ寺内に前方後円墳があり金銅製双魚佩(そうぎょはい)が発見された。

ただ時代的に見れば桜井古墳が古い。それは物部氏がかかわったともなる。寺内古墳群になると小さくなっているからである。
それは大和王権が進出した結果であり原町には物部系がいて安曇系の海人族がすでにこの地に根を張っていた
だから大和王権の浮田国造は鹿島区の浮田に置かれたのである。
それは大和王権が直接かかわる官営のものだったからである。
それは毛野氏が関わっていたがそのあとに大伴氏がかかわるようになった。大伴氏は大和王権を支えた大氏族だからである

その大伴家持に恋したのが笠女郎である。つまり真野郷に大伴氏がかかわりそのとき真野の草原のことが伝えられたのである。
その草原(かやはら)は謎であるが地名のことであり萱が茂っている荒野のような地域ではない、新しく開かれた港だったとなる。
この歌を誤解するのは真野の草原を面影にみるというとき陸奥にはるか遠い地でも面影に見るように大伴家持様のことは離れていてもその面影が見えますということである。陸奥の真野は遠い地として奈良の人々にも知られていたのである。だから地名でありただ萱が茂っている場所ではないことだったことは確かである。

カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。

神話での記述
神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、4対8柱の神を生んだ。

次に風の神、名は志那都比古しなつひこの神を生みます。次に木の神、名は久久能智くくのちの神を生みます。次に山の神、名は大山津見おほやまつみの神を生みます。次の野の神、名は鹿屋野比売かやのひめの神を生みます。亦またの名は野椎のづちの神と謂まをす。志那都比古神より野椎神までせて四神柱


「かや」の音のある名前を列記して置きますと:

「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)出雲神社リスト@#59
「加夜神社」   (出雲風土記、神門郡)出雲神社リスト@#282
「阿太加夜努志多伎吉比賣」 (出雲風土記、神門郡)
「賀野里」 (かや)(播磨風土記、飾磨郡)
「鹿屋野比賣神」 (古事記、野神の名前。岩波ではp58)
「加悦郡」 かや、と読む、丹後の一地方 
「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:神prefix
「市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷
「韓人山村等上祖 柞巨智賀那」(参考)(播磨風土記、飾磨郡)
「賀奈良知姫」(参考)(先代旧事本紀p107、葛木土神の剣根命の娘)

カヤナルミ考・1
草野神社のご祭神は加夜奴比女命、配神は南八幡宮でご歳神誉田別命です。


「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:

8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という

草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)

ここに草野灰とか保々吉灰とか ありこれは焼畑と関係している。灰は焼畑で肥料になっていたからであるただ。神石萱(かみいしかや)とは何なのだろうとなる。

市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷

萱というのは当て字であり伽耶にもなる。この市鹿文は蝦夷とあり蝦夷になったのである。大和王権が成立する前に存在して大和王権にお逆らうものとしてあった。
ここで明確なのは灰というとき焼畑をしていた人達がかなりいたということである。その焼畑の技術をもたらしたのは海人族の安曇族系統だった。その安曇系統の八木氏は八木沢峠とか玉野村から霊山に行く道に八木原があり焼畑が行われて地名化した
さらに霊山から石戸村の入り口に犬飼(犬養)があり明確に地名をとなり残されている飯館村の佐須村に山津見神社の本山がありそれは焼畑と関係した神社だった。狼が祭神となるのは焼畑で動物に野菜が食べられ荒らされる。その動物を追い払うから祭神となったのである。

ともかく万葉集の草原の謎は草という字にこだわることにもある。あくまでも万葉集は中国から漢字が入って来た時当て字なのである。音に漢字をあてたのである。それで本来の意味が誤解するようになった。北海道のアイヌ語の地名に漢字を当てたと同じである。だからどうしても音でなく漢字から解釈することで誤解するようになった。

いずれにしろ南相馬市の原町区に桜井古墳がありそこが一番古い
鹿島区の寺内古墳群は大和王権が直接かかわり支配地域になった。浮田国造は鹿島区に置かれたからである。

草原という地名はどこにあったのか?

これも謎である。原町区の萱浜(かいはま)がカヤになったのか、場所的に見ると違っている。なぜならカヤの神が祀られているのは鹿島区の寺内だからである。ただすでに大伴氏の大和王権が関係しているというときすでに草原という地名があったはずだが草原という地名はない。でも石巻には草原という地名があるからそこだという説もある。
鹿島区に唐神とあるときこれは唐は韓であり韓の神として最初に仏教を受け入れたのである。それが地名化して残っているのに草原は残っていない、それはなぜなのかとなる。
確かに伽耶国が日本と深くかかわっていた。でもその伽耶の影響は薄れて返って伽耶の痕跡を大和王権は消そうとしていた。だから伽耶に関するものは消失したとなる。

とにかく陸奥の真野の草原とは単なる恋の歌ではなく大和王権が南相馬市の鹿島区の寺内に深くかかわりそこに前方後円墳が作られ土地の首長クラスに金銅製双魚佩は贈与されたのである
だから陸奥の真野の歌は大和王権の支配地域い入った確定されたものとして奈良の人々に認識されたのである。

先住の中国南部から流入してきた人々(海人族)が後に打ち立てたのが、邪馬台国の卑弥呼を盟主とする倭国連合で、主として九州の中〜北部を支配。

その結束が強かったため、新興勢力である朝鮮半島からの渡来人たちは立ち入る隙(新たな開拓地)もなかった。彼らにはじき出されるかのように、九州南部に定住していく。先住民(ヤマツミに代表される縄文人やワタツミに代表される海人族か)と婚姻関係を結びながら、南九州一帯に勢力を拡大した。

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大和王権は天孫族であり天から天下るとなり遊牧民系統でありそれが縄文(山津見)人と一体化した海人族(綿津見)を支配するようになった。だから大和王権が鹿島区浮田に国造(くにのみやっこ)を置き支配したのである。その大和王権の軍事顧問である大伴氏がかかわりそれで陸奥の真野の歌が生まれた。
だから萱浜(かいはま)が草原の説は合わないとなる
なぜこうして草原が問題になるのはそもそも地名ならば残っている。でも地名が残らないから探りようがなくなり誤解も生まれてのである。

九州だけではない日本全国に海人族と大和王権の天孫族の争いがありそれが南相馬市にも濃厚に歴史として残されている
南相馬市の原町区には綿津見神社が20とか本当に多い
だから大和王権は原町区には入れず鹿島区真野郷に大伴氏を派遣して治めた、原町区はまた物部氏が支配していたから入りにくかった。小高の吉名郷は物部吉名という人がいて物部氏の支配地域だったからである。



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