南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違
(鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)
貞観 6 年 8 月(866 年)の記事に「阿波 国名方郡の人、二品治部卿兼常陸太守賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂、部字を改め宿 禰を賜ふ。粟麻呂自ら言ひけらく、
安曇は百足宿禰の苗裔
安曇宿禰(連)、海犬養、凡海連、八木造、阿曇犬養連
の 5 氏族が実在していたことが分かる。
賀陽親王家令正六位上安曇部粟麻呂、
賀陽(かや)親王家とあり安曇部粟麻呂とある、この賀陽(かや)とは伽耶の国のことである。天皇家には明治以降でも賀陽(かや)親王家は受け継がれて存在している。
ただ相馬地域に関わったのは犬養氏と八木氏である。
河内国には安曇氏族の八木造がいたことが分かっている。八木造は『録』によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏族の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことである。その地に古代から式内社である夜疑(やぎ)神社があった。
その本拠地は大阪であり九州の福岡市とかでない、でも大阪から移動するとなると船で移動したのかそれもよくわからないのである。確かに9人乗りの丸木船の線刻画が南相馬市の鹿島区の寺内の古墳から発見された。でもそいう船で太平洋を渡って来れるのかとなると厳しい。入江とか近海なら可能である。近海でも危険になる。
確かなことは犬養氏と八木氏が相馬地域と深くかかわっている。
綿津見神社が原町区20もあるということがそれは何を意味しているのかとなる。それはその一族がこの地の開拓者になっていたということである。それは地名化しているから紛れもない事実である。安曇氏はあくまで祖先であり直接は関係なくなっていた。
むしろ犬養氏と八木氏は深くかかわっていた。
安曇氏が海人族として誇張化されたというとき何か明確な文献とかに残っていないからである。むしろその後裔の犬養氏と八木氏は明確なものを残している。
安曇というとき地名化しても真実は地名から証明しにくいこともある。でも相馬地域は綿津見神社がこれほど多いということでそれがなぜなのかとなる。八木沢峠であれ八木原であれ犬養が伊達市でも地名化している。最初に開拓者として入ったから命名者となり氏族名が地名化したのである。
そのとき大和王権は成立していないから正式な歴史書に記されなかったとなる。ただ綿津見神社と山津見神社が残されたのである。
縄文時代→綿津見神社(安曇系)→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→大和王朝
前に考察したがこれは間違っていた。
縄文時代→物部氏(物部王朝+出雲王朝)→綿津見神社(安曇系)→大和王朝
ここで問題なのは物部氏の痕跡が見いだせないことである
原町区に綿津見神社が20とか多すぎる。それは安曇氏系統の犬養、八木氏がかかわり建てられたのかとなる、そもそも物部神社など一つもない、地名化もしてない、物部川と他ではある
それも何故なのかとなると不明なのである。
益多嶺神社福島県相馬郡小高町大井字宮前144第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷平定の際、出雲太社より御分霊を勧請された神社で、昔から甲子大国社と尊称される。
多珂神社福島県原町市高字城ノ内112景行天皇の40年7月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。
鹿島御子神社福島県相馬郡鹿島町鹿島字町199第12代景行天皇の御宇(西暦917)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。
陸奥国みちのくにに入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷(えみし)の支配地に入られた。蝦夷の首領島津神(しまつかみ・国津神くにつかみたちが()、竹水門(たけのみなと)に集まって防ごうとしていた。しかし、遥かに王船を見て、その威勢に恐れて、心中勝てそうにないと思って、すべての弓矢を捨てて、仰ぎ拝んで降伏した
この竹水門はどこなのか?竹とは高(たか)であり多可神社が原町のあり高倉があり高倉には綿津見神社がある。それは奥まった山の方である。
そもそもこのヤマトタケル遠征の神話は何を根拠にしているのかわからない、それは安曇氏であれ海神人族の移住に由来したのが神話化したのかもしれない、実際の証拠としてなぜ原町区に20もの綿津見神社があるのか、それが証拠として見るとそうなる
そして確かに原町に多珂神社神社がありこれは大和王権の官製の神社となる。鹿島区の鹿島御子神社はまさに建御雷神(たけみかづちのかみ)の神であり大和王権が支配した地として全国に建てられた。
多珂神社は広く立派なのである。その隣に隠されたように綿津見神社があった。でも社殿のないのである。
ここはもともとは綿津見神社がありそこに新しく大和王権系の多珂神社が建てられたのである。
なぜなら他の綿津見神社は立派なものも多いからである。
大和王権に征服される前に物部氏とか安曇系統の人たちが開拓に入りそのために綿津見神社が原町区に20もある。そして大和王権が必ずしもその人たちと争っとのではなく平和的に恐れて従属したのである。それもすでに安曇族系統の犬養八木氏が住んでいてそれがヤマトタケル神話に取り入れられたともなる
確かなことは原町区と鹿島区では明確な相違がある。まず桜井古墳が原町区にあり綿津見神社が多い、でも鹿島区には綿津見神社がなく鹿島御子神社のように大和王権直轄の神社がありまた浮田国造が置かれたことでも原町区とは違っている。
最初に大和王権の支配下に入ったのは鹿島区でありそれを象徴しているのが真野の草原の万葉集の歌である。笠女郎が大伴家持を慕う恋の歌でもそれはこの地が原町区ではない真野郷として大和王の支配下に入ったと中央の歴史書に記されたのである。
そして寺内に前方後円墳があ金銅製双魚佩が大和王権から下賜されたのである。
何かこういうことは常にある、ロシアとウクライナが争いロシア領地のクリルをウクライナが占領して支配したと宣言する、それでロシアの旗を捨てウクライナの旗を行政府に飾る。つまり郡とは軍のことでもある。軍隊がまず入り占領して支配するのである。ただ大和王権の軍が入って来た時争わず従属したなる。
いずれにしろ物部氏であれ安曇系であれ原町区は在地の勢力があり大和王権が進出しにくいから鹿島区は大和王権の方が支配したとなる。それは桜井古墳が大きなものでありまた綿津見神社が多いということがその証拠なのである
【古代-陸奥の真野郷-その他の最新記事】
- アズミ、イズモ、アズマ,イズミ【安曇、出..
- なぜ下田なのか―その港の地名由来 【川..
- 真野の草原の歌が日本の建国神話を知らなけ..
- 真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇..
- 相馬地方の横穴古墳の謎 【鎧兜に馬を操..
- なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか..
- 南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大..
- 焼畑から県(あがた)となり米を税として取..
- 真野の草原の歌は境界の歌 【蝦夷は..
- 相模武蔵の古代史から解明される中央政権と..
- 南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名..
- 只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平..
- 安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した..
- 南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはな..
- 真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地..
- 南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から..
- 南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社につ..
- なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見..
- 真野の草原は自然境界でもあった (..
- 陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった ..