なぜみちのくは福島県(棚倉)が境界なのか
【ヤマトタケルの東征伝説があり境界だった】
福島県の歴史の道の旅の回想 (棚倉→白河→会津ー(白河街道)
日本は森の国‐飯館村も丸森町も森が深い
【八溝山を自転車で白河の関に来た記憶】
棚倉に残る伝説のこの地に8人の土蜘蛛がいた。黒鷲、神衣媛、草野灰(かやのはい)、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱(かみいしかや)、狭礒名と具体的に述べている。ところが征伐に来た磐城の国造が敗れたので天皇は日本武尊を使わした。8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した。そこで彼は槻弓 槻矢で8本の矢を放ちたちどころに射殺した。そして土に刺さった其の矢はたちまちに芽吹いて槻木となった。そこでこの地を八槻の郷という
なぜ棚倉で争いが起きたのか、それはヤマトタケルの東征神話にあるようにまず茨城県に入って来た。
茨(いばら/うばら)の生えた地域」を指した呼称と見る説もある。
『和名抄』によれば、この茨城郡内には特に「茨城郷」が存在している。この茨城郷の比定地は石岡市茨城(ばらき)とする説が有力で、同地は常陸国の古国府や茨城郡の郡家も置かれたと推定される政治的中心地でもある。また付近の茨城廃寺跡(ばらきはいじあと)からは「茨木寺」の墨書を持つ土器が出土しており、「茨城」が古くは「茨木」とも記されたことが知られる[3]。
賊を討つため、野の茨で城を築いたという古書の伝説。常陸国_風土記によると、「むかし、『国巣(くず)』や『山の佐伯』や『野の佐伯』と言った盗賊がいて、普段は穴の中で生活していた。そして、隙をみて盗みを働いた。この話を聞いた黒坂命(くろさかのみこと)が盗賊を退治しようとした。黒坂命は盗賊が穴から出ている隙に、穴の入り口をいばらで塞いだ。その後盗賊退治の兵を出した。逃げる盗賊は穴に逃げ込もうとしたが、いばらに阻まれ皆打ち取られた。そのため、『いばらぎ』の地名ができた。
この伝説のようにいばらぎは野薔薇のことであり南相馬市原町区の大原から八木沢峠に行くところに薔薇坂とかありこの薔薇は
イバラ(野茨)のことである。それは棘をもっているのでそれが密生していったら通りにくくなる。そこに原発事故で原野化して一軒の農家は牛を飼っていたが空家化した、あの辺は一時放射線量がかなり高い地域となりその他の家も空家化したのである。
そこにカモシカが出てきたのには驚いた。人間がいなくなるとそのためにに里に下りてこない動物でも降りてくる
草野灰(かやのはい)、保々吉灰というのは焼畑をしていた人達である。森の木を焼いて灰にしてその灰を肥料にしていたからである。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
これはヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが歌ったもの
タケルとヒメ達一行は東の方の大和朝廷に服従していない者達を服従させるための旅をしていた
焼津は焼き畑が行われた地域でありその名がついた。焼畑の地名は全国に多いからである。この辺では飯館村の佐須がそうである。それは海洋民の安曇族の後裔の八木氏などが入って来て焼畑を教えたのである、だからヤマトタケルの遠征伝説はその下敷きとして綿津見神社として残ってる安曇族などがその基となっているともなる。
ともかく棚倉という地域はかなり古くから何か要所となっていた。それは地理的にそういう場所だったからである。八溝山を源として久慈川があり山でも平地でも茨が覆っていてそこ行くのはむずかしい。すると川をさかのぼって来たと推測できる。川が道となる、
古代では川は道であった。アイヌでも川は道であり身体になぞらえて川口は頭であり川上は尻になる。その名づけ方は川を上流から下るのではなく下流から上ってゆくからそうなった
つまり川上に上る道だったのである。
棚倉の場所が久慈川をさかのぼり山を分け入りそこが盆地のようになっている。だからそこで争いが起きた。関ケ原も東西の境目でありだからこそ天下分け目の争いが起きた、日本を二分する争いが起きた。つまり地理から歴史を見ることが基本にある
ともかく勿来の関があり白河の関があり棚倉でも福島県と茨城県の境界になる、つまり茨城県との境界は古代にも由来しているのである。そこはみちのくの境界だからこそ大和王権の軍と衝突して争いになったのである。また棚倉は水戸街道に通じた場でもあり要衝の地だったのである、だからこそそこで戊辰戦争があり相馬藩でもそこに集結して薩長軍と争った。そして相馬藩でも水戸の天狗党の影響を受けたというときそういう地理的な場所にあったからである。
8人の土蜘蛛は津軽の蝦夷に援軍を依頼 徹底抗戦した
ただ不思議なのは津軽の蝦夷と言えば相当に遠い、そこからどうして道もまともにない時代に来れたのかとなる
津軽はツノガノアラシトから名ずけられてと考察した。蝦夷というのは大和王権に逆らう人達でありその連合体であった。だからそこに渡来人がかかわっていたのである。
でも津軽の青森までかかわり連合体が形成されていたかとなる
確かなことはみちのくというとき福島県が境界になっていたのである。またむしろ文化的に優れていて独自の連合体が形成されていた。それが日高見の国だと言われる
歴史を見るときまず地理を見る。そして境界になる場所が大事なのである。
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを 笠女郎
これはここが自然的歴史的境界だったことを考察して来た、だからこそ大事な地域となり奈良の役人でも知られた地になっていたのである。だから歴史を見るとき地理を見て境界を見ることが基本になるのである。
棚倉町の秋の暮
都々古別神社や八槻都々古別神社
その謂れも古りて秋の暮
水戸街道の通じて水戸を思ふ
ここは古代よりみちのくの境
故に大和王権と蝦夷の争いの伝説
ヤマトタケルの伝説の語られる
福島県と茨城県の境はみちのくの境
我はここに一夜の宿をとる
【古代-陸奥の真野郷-その他の最新記事】
- アズミ、イズモ、アズマ,イズミ【安曇、出..
- なぜ下田なのか―その港の地名由来 【川..
- 真野の草原の歌が日本の建国神話を知らなけ..
- 真野の草原の歌の謎ー毛野氏と伽耶国ー安曇..
- 相馬地方の横穴古墳の謎 【鎧兜に馬を操..
- 南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違 ..
- 南相馬市の古代史ー海人族(安曇氏系)と大..
- 焼畑から県(あがた)となり米を税として取..
- 真野の草原の歌は境界の歌 【蝦夷は..
- 相模武蔵の古代史から解明される中央政権と..
- 南相馬市鹿島区浮田国造の謎 (地名..
- 只野氏が語る家の歴史 (安積氏と平..
- 安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した..
- 南相馬市の原町区に綿津見神社が多いのはな..
- 真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地..
- 南相馬市の古代史ー浮田国造(毛野氏)から..
- 南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社につ..
- なぜ南相馬市と相馬市に綿津見神社と山津見..
- 真野の草原は自然境界でもあった (..
- 陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった ..