2024年11月07日

思い出に残る旅 【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】


思い出に残る旅
【人生最後に残るのは思い出ー老人は思い出を語るのみ】

●共にその土地で苦労して昔を語り連帯する

人間は老人なり残るものは何なのか?そんなこと考えて生きる人はいないだろう、でもそれが後になり老人になるとわかる
何かをするというとき仕事でも実は後でそれが充実した思い出になるとき老後はそのことをもい出して語り合い共感して連帯する
だからこの辺で原発事故とかで故郷を離れて暮らすようになった人たちは他の土地でまた新たな思い出を作ることは容易ではない。でも若い人ならそれができる、それだけの生きる時間があり例え移住してもそこが故郷となる
要するに生まれた所が故郷とは限らない、長く住んだところが故郷になる。そしてその土地と切り離せず思い出が作られる

それで浪江の津島というと本当に街からは欠け離れた辺鄙な土地である、でもそこに戦後開拓に入った人たちがいて共に苦労した人達でありそこに連帯が生まれて思い出も作られた
だから辺鄙な所でも離れたくないというのが理解できる、なぜならそこには苦しくても共に生きたという思い出があるからそうなる。他の土地に移ったら確かに便利な生活はできてもそこに共に生きたという思い出は語り合えないからその土地の人との連帯は生まれないのである。だからすべてがいくら補償金を多くもらってもそうしたことが補えないのである。そういう精神的なものは補うことはできないのである。

だから熟年離婚が多くなっているがそれが損なのはもはや60過ぎてから新たな生活を始めてもなかなか思い出を作り連帯することが難しい、そのためには時間がかかるからである。何か家族であっても息子娘で一旦離れてしまうと疎遠になり他人のようにもなったしまうのである。つまり一緒にくらしていないと例え孫でも外孫になると親密にならないしおばあちゃんおじいさんという感覚も持てないとなる。遠く離れて暮らせばそこで思い出が作れないからそうなる、ただ近くであれば交流がありそうはならない、遠くになるとどうしても疎遠になってしまうのである。

●自転車の旅の思い出

思い出とはいろいろある。それは個々人によって違っている
何がいい思い出になるのかわかりにくい、でも大概どんな人でも老人になるとその過去を人生を語る。何故かとなればそれが人生だったとなってしまうからである。それで何も語らない人は何か後ろめたいことしてきて語らないのかとなる
別に特別な人でなくても必ず過去をそれぞれの人生を語るからである。つまり老人は思い出の中に生きているのである。

私の場合自転車で旅したことが思い出になった。そんなこと遊びではないかとなるがやはり自転車で旅することは車とか電車で旅するのとは違い達成感があり感じることも違ってくる。だから一見歩くことで移動して時代は不便でも江戸時代でも思い出に残ったことは確かである。何か鉄道であれ車だと印象に残りにくいし自分の力で行ったという達成感がないのである。自転車だとあの坂を苦労して上ったとか記憶に残る、それで後から思い出して詩にしたりしている。つまり思い出として残すには鉄道とか車の旅だと残りにくいのである。ただ移動しているだけだともなる

だから芭蕉の旅でも歩いて旅したからこそ深い俳句が作られあのである。つまり何でも空間軸と時間軸で作られる、空間軸でも別に飛行機なら一挙に遠い外国に行けるが途中が省かれるから体験としては本当に外国を体験するとはならないのである
其れが大航海時代のように何か月もかけて外国に行った時の感動はないのである。それでも戦前は船ででもアメリカでもヨーロッパでも行っていたのである。
だからその時代時代で印象に残るものは違ってくる
それで芭蕉が平泉まで歩いて旅して感じたことは今は感じることはできないのである。それでも私は何度も平泉に行った、そこで

旅人の平泉去る秋の蝉

これは時間軸で感じたものである。季節の変化で感じたものである。もう秋かここで栄えたみちのくの都もあったがそれも遠い昔となった。旅人は秋の蝉の声を聴いて去ってゆくとなる
芭蕉の五月雨の降り残してや光堂というのはそうした空間軸と時間軸で作られたものである。はるばるここまで旅をしてきたが五月雨に朽ちもせず黄金の光堂が残っていたとなる深い感慨を句にしたのである。それは新幹線で東京から二時間半くらいで来ても感じないのである。

そして旅に病んで夢は枯野をかけめぐるというのもやはり旅して廻ったことが脳裏をかけめぐったのである。
私自身も自転車で旅したことがやはりこの句と同じように感じた。駆け巡っているのである。これは鉄道とか車で旅しても感じられないのである。人間の五感で感じるものが思い出として脳裏に刻まれ残るのである。

坂越え坂を越えつつたどりつく矢の原湿原心にしみぬ

●桜を見るにも空間軸と時間軸で見え方が違っていた

ある場所に行くのにもその行程が大事になる、そ子が現代の旅には欠けている
それは一目千本桜でも電車で行くのと自転車で行くのは相当に感覚的に違ってくる

はるばると我がたずぬれど千本の桜はみな散りし後かな

これも自転車で行ったから遠かった。でも電車で行った時はこんなふうには感じない
苦労してやっと来たのに千本の桜はみな散っていたとなり感じ方が違ったものになる
空間軸と時間軸で感じるものが違ってくる。空間軸では自転車で行けばかなり遠い所になる、
時間軸で見れば花は咲く期間は短い、だから桜はたちまち散って桜の盛りは見れなかったのである。
そこにかえって深い感慨が生まれた。だから必ずしも桜でも盛りを見るということでもない、
二本松城に自転車できた時もそうである

遠く来て霞城なれ残る花

桜が辛うじて残り咲いていたのである、どうしても桜は咲く時期が短いから満開の時を見れないのである
何かを見て感じるとき空間軸と時間軸で感じる。それが空間軸となると交通が便利になって感じれなくなる
また空間軸と時間軸は一体でありそれを切り離すことができない、そうなると浅薄な感じ方しかできないのが問題なのである
旅とは空間軸と時間軸のなかで感じるものとならないと深い見方はできないとなる
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