2024年11月29日

相馬地方の横穴古墳の謎 【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】


相馬地方の横穴古墳の謎
【鎧兜に馬を操作する渡来人集団の移住】

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都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物で、加羅国王の息子と言う。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

〈御間城天皇(=後述する崇神の名)の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。〉
 「どこの国の人か?」と尋ねると、「額に角のある人」は答えます。
〈大加羅の国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。〉…。
 「牛頭の冠」をかぶっていたので角に見えたのでしょう。それが地名の由来で、角鹿は敦賀の古名。笥飯の浦とは敦賀湾の気比の松原あたりです。

 1世紀から6世紀ごろまで朝鮮半島南部にあった小さな国の連合体を伽耶または加羅といい、なかでも有力な国を「大加羅」と称しました。加羅や新羅の最高の官位が「角干」で、訓読みだと「ツヌカン」。これが「ツヌガ」の意味のようです。

相馬地方の蝦夷の謎 (渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)

横穴墓の壁画は群馬栃木埼玉などのいわゆる毛野文化圏にはほとんど存在していない、しかもそれらは日本列島の中央部にはあまり見られず九州と山陰それに関東と東北の太平洋岸のみに分布しているものだという。
つまり横穴壁画文化を携えた人間たちは九州から集団移住してきた形跡がある。その移動経路は当然海路であったろう。各地の横穴壁画に船の絵が多いという事実がそのことを物語っている。
横浜墓を営んだのは侵攻の有力農民層であり彼らは濃厚集団とあると同時に武力集団騎馬集団であったことはすでにふれたが彼等はまたこう航海集団水軍集団でもあったのである

こうした横穴墓は普通数体の遺骸が納められていることから家父長個人の墓ではなく家族墓であったと推定される。副葬品には従来の古墳のような銅鏡は見当たらないが玉類や金は見られ特に目立つのは鉄製の窯、斧、直刀、矢じり、轡、鐙金具などの農具である。
彼ら群衆墓に葬られた人々は農民層であったと同時に日常的に武装した武力集団騎馬集団であった様がうかがわれる。

彼らは大和政権の覇権が北関東東北の浜通りに及ぶずっと以前からこのうち根付いたパイオニアだったのだだから彼らとても大和政権の支配者に言わせれば単なる野蛮な蝦夷でしかなかった
【古代東国物語ー永岡治】

横穴系の埋葬施設は、中国大陸(塼槨墓)の影響下に、その波は朝鮮半島の高句麗から南下し百済・加耶、そして日本列島へと伝播した。4世紀後半から5世紀初頭に石積みの石室に現れ、北部九州において横口の石室を生み出し、横穴式石室へと整備され、5世紀は畿内も含み限定的な展開に留まるが、6世紀には列島各地で採用されるに至る。

埋葬思想の独自性〜多様な墓制〜

古墳時代、5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つと考えられている。おもに6世紀中葉に山陰・山陽・近畿・東海地方まで盛行した。7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した

年代的には4世紀後半から5世紀初頭が想定される。埋葬された人物は、古墳の立地や築造年代からも新田川流域を治めていた浮田国造の初祖・鹿我別命だったと考えられる。しかし、2箇所の棺の痕跡は何を意味するのかなど今後究明すべき点も多い。

そして物部軍はヤマト国に進軍し、出雲王家の分家である磯城王朝を滅ぼし、ここに物部王朝が誕生します。
この武勲により、豊国物部氏には三河の地(愛知県)が与えられます。
なので愛知県には「豊」がつく地名が多いのです。

宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。

北関東に追いやられた豊国物部氏

学会では福島県に安曇氏が来ていたことは否定されています。
福島県の綿津見神社の創建は、中世に建てられたのがほとんどだそうで、古代安曇氏との関連はないそうです

南相馬市にあるほぼ全ての綿津見神社は、江戸時代幕末まで「八竜神」「八竜権現」という社名だったのです!
つまり、南相馬市では竜神信仰、「アラハバキ信仰」が江戸時代幕末まで行われていたのです!




桜井古墳は東海から来た物部氏がかかわった。最初に物部氏がこの地にかかわった。物部吉名という人がいて小高に吉名郷がある。
また鹿島の右田の御刀神社は明らかに物部氏のものである
だから物部氏が一番古く氏族としてかかわったことは確かである。
その割にはなぜ物部氏の跡がないのかとなる、神社もないのである
それでなぜまた綿津見神社がこんなに南相馬市の原町区に多いのかとなる、それは古代ではなく学会では中世のものとしているという、その論文も誰が書いているのかもわからない、綿津見神社と山津見神社はこれだけ多いということ古代に安曇氏が来たという証拠になるとしても確かなことは安曇氏の後継者の八木氏とか犬養氏が開拓に入ったのである。
それが八木沢峠とか相馬市から宇多川を上った玉野村から霊山に行く道に八木原があり石戸村に犬飼という地名がある。だから地名化するくらいだから古い、でもそれがいつの時代になるのかそれが問題なのである。それは古代ではなく中世だとなるのか?八木氏とか犬飼(養)氏は平安時代からでも大きな氏族として継続している

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でも疑問なのはたか神社の脇に綿津見神社が残されてその脇に式内社の立派な多珂神社(たか)神社がある。するともともとそこは綿津見神社がありそこに後から多珂神社が建てられたともみる
第一立派な多珂神社の隣に綿津見神社を作ることはない、つまり綿津見神社の方が古いから新しく立派な多珂神社が作られたと見るのが普通である。
綿津見神社がこれだけ多いのはなぜなのか、いつの時代に建てられたのかが問題である、そもそも古代からこんなに多く綿津見神社が建てられことはない、それを考慮すると古代ではなく平安時代以降となっても不思議ではない、安曇氏自体は消失してもその後継者の
八木氏とか犬養氏は継続して現代まで存続しているからである。

ただ大和王権の支配下に入ったのは南相馬市の鹿島区であり真野郷なのである。真野郷は古代の官製の正式に記録に残されたもである。鹿島の鹿島御子神社は武御雷の神を奉る大和王権の武神である
鹿島区には大和王権がかかわり支配した。だから原町区に桜井古墳があっても真野郷に浮田国造が置かれた。それは大和王権が最初に支配したからである。それで寺内の前方後円墳に金銅双魚佩が発見された。それは中央の政府から有力な氏族から贈与され双魚佩たのである。
だから大和王権に最初に従属した支配したのは真野郷であり鹿島区であり原町区ではない、だからなぜ綿津見神社が原町区に多いのか

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また桜井古墳はなぜあれだけ大きいのか、つまり物部氏がこの地に最初に来て支配して桜井古墳を作る首長が存在した
二つの棺があったというときそれは原町区の勢力の首長と大和王権の真野郷の首長なるものが埋葬されたとなる。
宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。
これは重要な指摘である、つまり桜井古墳の埋葬された二つの木の棺は物部氏と浮田国造の鹿我別王(かがわけ)となる

ただわからないのは安曇氏系統の八木氏であれその人達がこの地に入って来たのはいつなのかとなる。それは古代ではなく中世だとすると確かにこれだけ神社があるのだから中世とかにならないと建てられないとなる。ただ最初は小祠であり神社になったのは後だともなる。

ただ古代の伽耶と海人族の安曇氏とかは一体化していた。伽耶の王子がツノガノアラシトでありこのツノは地名化している
小高の角部(ツノベ)相馬市の松川浦の津神社はツノミツ神社でありツノガノアラシトなのである。それは間違いなく古代に遡る
また横穴古墳に描かれたもの渡来人のものであり鎧に兜をかぶる刀も持っていて馬を操る人でありそれは縄文人とかとはまるで違った先進文化を持った武人である。ではこの人たちは何者なのかとなる。それは韓半島系統の渡来人であり横穴古墳を作った人達である
でも桜井古墳の方が古くそれは物部氏がかあったとなる

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この船は相当に大きい船である。前に8人が確認されるが破片であり全体になると
十数人20人くらいになるのか?梶でも20くらいになる、これは内海だけではない
外洋にも乗り出したのかもしれない、何故なら人数が多いからである

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏

安曇海人ー宗像(宗像)海人、大山祇(わたし)和邇氏は海人族であり和邇氏でもその系統に真野氏が存在していたのである。
つまり航海にたけた氏族である。だからこそ真野古墳群から20人くらいが乗る船の絵が発見された。20人も乗れるということはそれだけ大きな船である。それだけの技術と航海術も持っていたとなる
だから焼畑の技術であれ鉄作りの技術であれ船を作る航海できる技術であれ鎧兜をみにまとい馬を操る人達は縄文人とかとはまるで違った異質な人達だった。だから縄文人は圧倒されて従属させられたことが明確に見える
ただ時代的に時間軸でみるとわからなくなる。

つまり横穴古墳にこのような絵を描いたのは誰なのかとなる。それは物部氏ではなくその後に来た人達であ安曇族系統の人たちになるのかとなる
最初に大きな古墳が作られて次に群集古墳となる小さな古墳が作られる、横穴古墳も家族とか小さな単位の集団が作った
大きな古墳となる桜井古墳でも大きな集団をまとめるものとして作られた、だから二つの棺があったというときそれは誰なのか、物部氏でありもう一人は誰なのかとなる、浮田国造の加賀分け王なのかとなる。大和王権が今の鹿島区の真野地区を支配して原町区の物部氏の勢力と合体した、そこにまた安曇氏系統の海人族がどのようにかかわったのか、海人氏系統の八木氏とか犬養氏は古代から後の平安時代以後にかかわったのかとなる。時間軸で見るのがわかりにくいのである。

そして大和王権が真野郷を支配して真野の草原の万葉集の歌が作られた。その真野の草原(かやはら)とどうしても草原ー萱の原にはならない。

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものをー笠女郎

陸奥の真野の草原のように遠いけれど私にはあなたの面影が見えるというのに…
草原ーかやはらは萱が茂っている所ではない、確かなことは遠い場所であり地名なのである。つまり大和王権に反抗する蝦夷の地域が服属したということで知られるようになった。

笠女郎もまた加佐でありこれは韓国の地名であり笠は当て字であり各地にある。

稲荷山古墳出土鉄剣は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。
カサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る

カサヒヨ(カサハラ)があり渡来人の名のである。
その前にすでに渡来人がかかわりその渡来人が実は大和王権に反抗していた。それで蝦夷とは大和王権に反抗する人達のことでありすでに縄文人は先進文化をもった渡来人と一体化して鎧兜を身に着けた馬を操る人達がいたなら手ごわい相手になったのである。

南相馬市の原町区と鹿島区の古代史の相違
 (鹿島区が大和王権に先に従属した理由−真野の草原の歌の意味)



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