2025年01月25日

旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】


旅が喪失した現代【価値の多様性−金にならない価値】

価値というときあまりにも多様なのである。ただ価値は現代なら金で計られる。金になるものは何でも価値があるとなる
金にならないものは価値がないとされる。
でもすべて金で計れないし金にならなくても価値があるものはいくらでもある。例えば景観に価値がある、何か私は景観を気にする。喫茶店でも景観がいいと価値がある、そこにいるだけで気持ちいいとなる。新地のはあガーデンという所は海が全面に見えるから気持ちいし松川浦でも港が見えて船が見えていいとなる

でも磯部の喫茶店はただ道に面していて海も見えないから入る気にもなれない、道を車が通るだけではつまらないとなる。
海が見えれば価値がある。ただ価値はいろいろでありそこで料理がいいとか人がいいとかいろいろな要素で価値を作り出している
温泉でも都会の温泉より景色のいい何か秘湯とかをめぐる人がいる。ひなびた場所が人気がある。

つまり人間は場所に影響される、場所が変わると心も変わる
また人も関係する。もてなしがいいとかでいいとなる。
ただ一番の価値は立地になる。景観がいい場所は人と関係なく価値を作り出すのである

●場所〔景観〕
●歴史
●料理
●人のもてなしサービス

何か今は料理に一番価値を置く人が増えている、私は料理より場所でありまた旅をするときそこまで行く過程で見るもの感じるものがありそれで俳句や短歌を作る

草臥れて宿かる頃や藤の花 芭蕉

こういうことは歩いて旅した時代で感じたものであり今は車だからただ目的地に着き旨いものを食べることが目的になり旅は失われたのである。温泉地でもそこが高度成長時代は歓楽街のようにもなった。旅自体が現代では喪失したのである。旅は車ではできない思う、山頭火が時雨に感じたのは歩いて旅していたからである。
でも車だったら時雨でも風でも感じないのである
すると旅館でホテルで何かうまいものを食べたとかしか印象に残らなくなる、だから現代は旅がなくなりただ車で移動しているだけだとも感じる

何が価値があるかというときそれも様々であり時代によっても変わる。旅となると単なる移動ではない、歩きながら景色でもまた旅は道連れとなる。そうなるのは歩いていたから道連れになった。車は閉ざされた空間であり人と触れ合わないのである。ただ互いに通り過ぎてゆくだけである。

例えば東北〔福島自動車道〕ができたが前の道は旧道になり車が通らなくなった。でもサイクリングにはいいとなった。もし歩いたとしたらそれ以上にいいとなる。車が通らないからである
ただそのために店は人が入らずやめた。でもサイクリングするには良く途中に休む場があればいいとなる。
昔の街道のようになり茶屋があり休む。それが旅なのである

街道に秋の日さして松による道の辺あわれ草の花かな

歩いて感じるののは違っている。松でも違って見えるのである
浮世絵とかに残されている風景がそうである。何か松でも良く描かれている

松一本ここに立ちにし標かな旅人行くや秋の暮れかな

松は高くもないから人間に見えるのである。だから松に特別親しみを感じる。

とにかく街道には松が多かった。松並木があり松を絵にするのが多い。

旅人を地蔵の見るや街道を今日も行く人秋の日さしぬ

街道なら地蔵でも旅人見る、道祖伸とかもある。それは旅の安全を祈るとなる。つまり街道はこうして心を通わすものとしてあった。自転車で旅して雨が降ったとき夕立ちが来たとき御堂に雨宿りした。御堂は旅人が休む場所でもあった。雨宿するにいいし時代劇ではそこで寝ていた宿にもなっていたのである。そういう役割があったとなる。

夕立や御堂に休む燕飛ぶ

ともかく現代は旅が喪失した。車だと移動であり旅になりにくい、そこで何か移動するだけで記憶に残らないのである

冬籠り記憶の道をたどるかな

このように記憶が車だとたどれないのである。歩く旅なら記憶に残る。だから現代人はかえって失うものがあった。五感で感じるものが鳴く記憶されないのである。それが後で大きな損失だったと気づくのである

一歩一歩踏みしむ道や根ずく木の心に残る秋深むかな

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