2025年02月06日

天才上野霄里の変幻自在の剣 【独自の剣法の創始者でありまねることができない】


天才上野霄里の変幻自在の剣
【独自の剣法の創始者でありまねることができない】

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剣でも一つの型に嵌められない
縦横無尽の無手勝流
右から打ち込むと見れば
左から打ち込む
正面から来ることはない
どこから剣が来るのかわからない
変幻自在の剣で捕らえられない
それでも隙がない
突如強烈な電撃の一撃!
活殺自在の剣の驚異
その前に人は卒倒する
自らの己が流派で自在
その達人は習わず自得する
彼には彼の流儀があり
それはまねることができない
それは伝授されることはない
その達人の技はその人のみのもの
それは秘術にもなる

なんでもそうだけど一流の人間となると理解できなくなる。だからこそ天才は天才を理解して意気投合する。それがヘンリーミラーと上野霄里だったとなる。その表現が方法が今までの小説とかと違った独自の表現になった。
私自身は天才でもないからヘンリーミラーとかでも理解できなかった。上野霄里氏はヘンリーミラーその骨の髄まで理解したとなる

天才とは何か異常なエネルギーを持った人でありそれは生まれつきである、だから彼は小学生から大人の小説でも理解していたとある。天才とはまれなる天分に恵まれた人である、だから努力しなくても会得する。そもそも努力を嫌っているのである
だから彼の文章を読むと何か整然としない、何か変幻自在の文なのである。それで戸惑ってしまう。

でも普通人間は天才ではない、普通の人間が多数なのである。キリストも天才とは違う、普通の人間でありだから万人に通じるものとなった。また聖書の予言者とかは特別の人でもなかった
明かなことは何か欠けた人でありとても優れた人とは違うことが不思議なのである。むしろ劣った人だったともなる
それが神がかかわり偉大にしたのである。あくまでも神が偉大にしたのでありその人の功績ではないのである。またその本人も常に自分を誇ることはしなかった。神を賛美することであり自分のことは卑下していたとなる

天才とは生まれつき他の人とは違っていた。異常なエネルギーの持ち主であり能力の持ち主である。だから常人がまねるとおかしくなる。その差が大きすぎるからそうなる、その危険性は神格化して偶像崇拝になることである。
いずれにしろ天才と言われる人は常人とは根本的に違った人である、だからまねることはできない、それはニーチェとかヘンリーミラーとか上野霄里は何かミケランジェロのあのキリスト像と似ている、凄まじい怒りが堕落した人間に向けられた。まずキリスト像をあのように描いた人はいない、弱々しいキリストではなく恐るべき怒りのキリストであり仁王像に似ている。

それはキリストは神殿に入り商人に激怒したのと似ている、神殿を商売の場にするなと怒ったからである
それと同じように現代文明人を厳しく断罪したのである。
だからアウトサイダーとして共通している。それはキケルゴールとか内村鑑三とかの単独者の系列につながる人である
ともかく組織と集団を異常に嫌悪して排斥した。でも現実社会は組織集団化で動いている、宗教でも組織集団化したときすでに死に体になっていた、それがカトリックであった。教会が神の代人になり権力を行使するようになった

それは仏教でも特に現代ではカルト教団がそうである。完全に権力化してこの世の力を得ようとしているだけである、本来の宗教はゼロでも宗教ということで特権を得ているのである
でも結局民主主義とは数がすべてであり数ですべてが決められる
それで選挙で選ばれたのがナチスでありヒットラーであった
それが席巻して多大な人命が失われたのである。それは共産主義革命でも同じだったのである。カンボジアで200百万人が粛清されとか集団組織化の人間の恐ろしさを具体的に示したのである
要するに人間社会は集団組織化すれば悪も悪ではなくなる
その集団組織に逆らうものは粛清抹殺されるのである

でも集団組織をあれほど嫌悪して断罪したことは返って異常にも見える。普通はその集団組織に自ら組み入れられる。それが人間社会である。天才はそれに耐えられない、だからこそアウトサイダーになり超人志向になり原生人間を主張したのである
ニーチェも言っていたが個人も狂っているが集団も狂っていると
集団が狂う方が一人の人間が狂うより怖いのである。それが莫大な人間の死にとなり終わったからである。

確かなことは現代からルネサンスのような真善美の殿堂が生まれないことである。世界でも大都会というのはすべてビジネス都市であり共通している、そこに真善美はないからである。それで索漠としているのである

とにかく上野霄里氏のことが理解できないのは何か天才剣士のように真正面から型通リにこないから面食らうである
宮本武蔵のあみだした二刀流にもなる
ただ本でも理解できないのは深く読め込めないのも同じである

自分の人生を生きるものとなる時、はじめて彼は他人の生活を見たり聞いたり感受したりより深くで理解して他人の生活に浸透していくことが可能なのであるー宇模永造

こいうことなのである。自分自身があって自分自身が生きなければ他人も理解できないとなる、特に相手が天才となるとさらに理解できなくなる。天才は時限の違った存在でありその発想も常人と違うからそうなる




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