2025年02月18日

相馬市玉野村の歴史とその生活の変遷


相馬市玉野村の歴史とその生活の変遷

tamnomuramap.jpg

玉野村ー霊山ー石戸村ー梁川ー丸森−相馬へ 
【玉野村の歴史冬に入る俳句短歌】

●玉野村の歴史


日本歴史地名大系 「玉野村」の解説
福島県:相馬市玉野村
[現在地名]相馬市玉野
阿武隈高地の霊山りようぜん(八二三・五メートル)および古霊山(七八二・五メートル)の東麓の山中および高原に位置し、東は入山上村・笹町村。南西の伊達郡石田村(現霊山町)からの中村街道が字岩下で村内に入り、北の仙台藩領伊具郡筆甫村(現宮城県丸森町)を経て、入山上村字松まヶ房に至る。字霊山に発した御手洗川は宇多川となり、筆甫村を経て入山上村に入る。

かつては山上村のうちで、慶長三年(一五九八)に同村と上杉景勝領の伊達郡石田村から人を移して駅を立て、それぞれ相馬玉野村・伊達玉野村と称された(宇多郡村誌)。



玉野村の歴史は比較的新しい、江戸時代に入植した人たちの子孫だとなる。もともと伊達藩に属していた。石田村から入植した
南北朝の争いで落ち延びた人達、主に只野氏一族などがあり玉野村を通り卒塔婆峠を越えて真野川の上流に出る大倉村の方にでて
鹿島村に落ち延びた。その卒場峠は通れなくなり森に埋もれた

実はもともと最初に入って来た人達は安曇族系統の八木氏である。なぜなら玉野村の境界辺りに八木原とありそこは海人族の安曇族系統の八木氏が焼畑を行った地域で名前が残った
また山津見の社が途中宇多川を上ってきた所にも隠されるようにあった。つまりそういう場所が飯館村に行く途中の山中にある
栃窪村でも山津見神社があり塩の道であった所を上ると山津見の社があった。また飯館村の佐須村はまさに佐須とは焼畑のことである。そして山津見神社がある。綿津見神社もある

これは対になったものである。それは浪江町の津島でも途中に大山祇神社があり大山津見神社でもある。それも焼畑が行われた場でありそれで地名化した。
原町にもある三島神社も大山祇を祭っている、

霊山から石戸村に入ると犬飼というバス停があり犬飼も犬養であり近くにもあり安曇族系統の人たちが入って来て焼畑をした跡だとなる。
だから東北〔福島〔東北〕中央道の前の霊山に行く道路は古代からある古い道だとなる、その境目に伊達と相馬の境の桜が咲く。
花は相馬に〜実は伊達に〜は有名である。
若木神社もあり他藩から疱瘡が入るのを恐れ祭られた

玉野村の本体はその境目からトンネルをくぐるとある。そこは開けた平の土地がありそこに一つの村は形成されたことは納得がいく、何か別世界に来た感じになる。ただここは江戸時代になって伊達藩の石田村の人達が入植したから比較的新しいのである
そこは霊山が近くても南北朝時代は原野だったとなる。でも丸森となると古代から伊具郡があり古い、南北朝時代の霊山にかかわる桜が筆甫にある。

ウバヒガン桜(親王桜)
筆甫
高さ約30m、根元の幹周り10mの古木で、樹齢500年以上と推定され、4月の下旬にはひがんざくら特有の淡く小さな花をひっそりと咲かせます。
丸森町指定文化財(天然記念物)。


近くには南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築いた際、鬼門であるとして薬師如来を祀ったといわれている薬師堂の小祠があります。

建武四年(一三三七)正月二七日の氏家道誠軍勢催促状(相馬文書)によると、相馬胤頼は北畠顕家の籠る霊山城を「武野路手」から攻めることを要請されているが、これは玉野路手のことであろう。


この関係で鬼門ななったのか不明である。つまり相馬氏が北朝でもあり南朝の北畠氏と争うことがあった。相馬氏でも南朝派と北朝派で争うことがあった、それを語る只野氏一族の人が近くに住んでいる
この辺では霊山上での攻防は大きな歴史である、だから当然そのことにまつわる話が残っている。

●戦後の引揚者の歴史も見逃せない

こうした山村で見逃せないのは戦後引揚者が開拓に入ったことである。もともと住んでいた人がいたがそうした引揚者は仕事がなく不便な所に入り苦労したとなる、それは全国で必ずある
南相馬市でも鹿島区の小池となれば街から近いのに戦後開拓に入って来た人を知っている。そこに自分の家で店を始めた時卵買いに行かされていたからである。それも自転車であり糠を入れて卵を割れないようにするが必ず割れたのである
それはなぜかとなれば道が舗装されいなくて真野川にかかった橋でも木の橋であり揺れたり道が悪いからだった
こういうことをふりかえるとそうした不便な時代に山村で暮らすのは容易ではなかった。

なぜなら街から相当に離れていたら相馬市の市街まで来ること自体簡単にできない、鹿島区の横手から梨農家が梨をリヤカーで相馬市まで運んでいたと聞いた
相馬氏だと15キロもあった。往復30キロでありそれを梨を積んで運べば重いし大変な労力だったとなる
だからそうした山村では簡単に街には出れないのである。基本的には自給自足する他ないのである。
でもそうして代々そうした山村で生活して来たのいである。それができたのは炭焼きがどこでもしていて山村が成り立っていたし
木材でもとれたから山持ちは金餅にもなっていた。それで飯館村のばあちゃんが私は相馬の女学校に親戚の家に住んで鹿島から通っていたとか聞いた。この辺で相馬女学校に入る人は特別のエリートだったのである。ともかく交通が不便だから車時代の今とは比べようがなく不便だった。だからこそ戦後の引揚者は半分くらい撤退したのも理解できるのである。

●玉野村の廃校の利用の問題

とにかく山村にも歴史があり何かそうした村が失われるのは寂しとはなる。やはり旅する時都会だけではつまらないのである。
自転車で回る時はかえってそうした山村が魅力になる、でもそこに今生活することは容易ではない。医者もいないし様々なことで不便になる。そして今は玉野村は山がまるごとソーラパネルになったり小学校が麦を作りウェスキー工場にするとかまたは飯館村だと放射性廃棄物の処理場になるとか何か余りにも違った雰囲気になった。
それで残念だとなるが生活が第一だからどうしようもないとなる。そもそも原発だって双葉辺りで働く場所がなく出稼ぎするから故郷で暮らしたいとして誘致したのも同じである。
それが裏目に出たのである。

私としては玉野小学校の利用は休息所にするとか何か憩いの場所にするとかがいいと思うがそれで金になるとはならない、するとどうしても金になることが優先されるのである。
そこで生活するとなると旅に寄るのとは全く違ったものになるからである。

ともかく山村がなくなることは日本全体でも多様性がなくなり単一化されて生活の彩りがなくなる。何か山村だとこんな所に人が住んでいるのか村があるのかと不思議にもなりほっとすることがある。それだけそういう場所に住んでいることはやはり外の人に見れば価値あるとなる。でもそこに住んでいる人から見れば住みたくないとなる。それは一時期にそこに寄る人との違いである
でも山村が消失してゆくことは何かどこも同じような街しかないとなるとつまらないとなる。多様な場所に住むことでそれが文化を産んだとなるからである。



この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/191255919
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック