2025年02月28日

なぜ下田なのか―その港の地名由来 【川をさかのぼり八木山があるー安曇氏系統の八木氏の地名化】


なぜ下田なのか―その港の地名由来
【川をさかのぼり八木山があるー安曇氏系統の八木氏の地名化】

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横川という地名は本流の川から横に流れる支流である
それは相馬氏の宇多川上流の山上の横川がそうである

下田の地名の由来は,本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。

)平城京(奈良時代)跡から出土した木簡(木製荷札)に「天平7年(735)伊豆国賀茂郡稲梓郷稲梓里の占部石麻呂が荒堅魚(鰹なまり節)を貢納した」とある。稲梓郷稲梓里は現在の下田市宇土金・上箕作・須郷地区(椎原も含むか?)ではないかと推察されている。

下田という地名は1300年頃につけられた。
本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。

つまりもともとは本郷(旧稲生沢(いのうざわ))がありその下手にある田が地名の基になった。港とあれば漁港でありなぜ田の地名になったのか
それは稲作が中心であり貢納するのも米だからとなる
でも中央の奈良に貢納したのは荒堅魚だった。魚だったから漁業をしていたからそうなった。魚を捕っていても稲作が中心であり稲生沢(いのうざあ)が本郷であり川を中心として水利の良い場所に元もと拓けたとなる。

川に沿って稲作がありその川を上って行くと八木山がある
これは安曇氏系統の八木氏であり相馬地域でも八木沢とか地名化して残っている。海人族が川をさかのぼり焼畑などをした跡である。その焼畑の後に水田が作られて奈良の都に貢納した
日本の歴史はこうして最初は海人族の人達が焼畑をして山の中に入って行った。それは相馬地域で考察した、原町の三島神社も大山祇神由来である。つまり海人族の神社である。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本総鎮守とも称される。

全国にある大山積神を祭る神社の総本社である[1]。主祭神の大山積神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する

これは山津見神社のことである。とにかく日本全国に海人族の跡がみられる。それが地名化している。

万葉集にも「防人の堀江こぎ出る伊豆手船、楫取る間なく恋は繁けむ(大伴家持)」とあるように、伊豆は古くから造船が盛んであったことが伺える。伊豆は東方海上交通の要所で、多くの湊があったことだろう

ただ下田が港として知られたのは明治維新の時ペリーが来た時である。もともとは地形的に入江の湾になっていて風待ちの港として利用されていた。
ともかく下田というといきどうしても田をイメージする
地名はそうしてその土地を喚起させるものがある。まずその地名からその土地を見る。下田は田なのかとみる。また上田は条件のいい田であり下田は悪い田なのである。
でも港として発展すればそうした田より米より港として商売できればそちらが中心になる。
下田に春に行った時岬の山に登ると春風が吹いた。

春風の強く吹きつけ下田かな

ここは吉田松陰が密航したとか明治にペリーが来たとか歴史的港ととなった。
こうした地域の歴史がインターネットで調べてわかる。
つまり郷土史にも役立つのである。

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