2025年06月11日

消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉


消失した本来の宗教―大自然で心を浄化するー上野霄里(しょうり)氏の言葉

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山(自然)から発するもの

山から発するものは
大いなる沈着鎮静である
山から発するものは
内なる充溢自信である
山は大地に不動にして乱れず
頂は天に向かい聳え
天の声を授受する
山は不変にして力強く持久する
人は汲汲として追われる生
それも実りあるとは限らじ

人から発するものは
この地を汚して大気も汚す
大いなる山と山は響き合う
嘆きにあらじ不平を言わじ
山から発するものは
堂々た自信に満ちた偉観
人を寄せつけぬ厳格な姿
万年億年の不変不動の姿
その肌を太陽の光が焼き
一転して氷雪に閉ざしぬ
轟々と風は唸り山は沈黙する
ひたすら沈黙して時を刻む
人の命は短く瞬時にも終わる

大自然から発するもの知れ
太陽は絶え間なく光を発する発光体
無数の星は光を発する
花々は神のイデアを美を発する
その多様な花々は調和する
神のイデアはそこに具現する
人間から発するものは何か
絶えざる不平不満を吐き出す
その解決方法はなし
大自然に没入して沈黙せよ
そこにエクスタシーがある

神の持つ宝庫は一つにあらじ
あまたの宝庫がそこにある
そこから無償に与えられる
人間に尽きることなく与えられる
まさしく神の業は奇跡なり
それを得るにはむしろ見る目が必要
その心は透明に澄まねばならぬ
俗を離れ孤高なるべし
無なる器となり神はそこに与える

大自然に深く没入せよ!
その与えられるものは無償なり
神は輝く発光体にしてそのエネルギーは尽きぬ
『光あれ』と天地創造の業は成りぬ
神の業は荘厳なる真善美の荘厳なる神殿を作る
そこに人は争わず手を結ぶ合う
熱い愛の心と信頼で結び合う
ただ人は心の清く大自然に没入せよ
そこで神の業をこぞりて讃える
そのために人が作られしを知るべし



●神は最も善きものを無償で与える

人間はどうあるべきかとなると語られることは経済のことであり人々が求めるのは金である
そのためにこの世があり人があるとなる、毎日がまず食うためであり生活することである
神が無償で与えると言うが人は日々労苦してその糧を得る
無償で与えられるものはない、金なしで与えられないからすべてが金になる
でも不思議なのはこの世の良きものは精神から見れば神は無償で与えているのである
別に花の美を見るにしても必ずしも花を花屋から買わなくても見ることができる

野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

野の花は別に買わなくても見れるし本来の花の美は無償で見れる野の花にある。また別に山でも景観でも無償で見れる
海を見たからと金を払いとか山を見たから金を払いとはならない、この世の最も良きものは無償だともなる。
つまりあくせくして苦労して与えらるものではないのである
ただ真善美を見るとき必要なことは心が清いことなのである。意外とこのことが無視されている

金を得るためなら相手を騙すし金になること利益が第一となる。それがこの世だとなる
それがカルト宗教団体でも御利益第一になる。毎日御利益を得るために集団で狂気のように祈り政治活動して権力を得ることしか眼中にない、そこには真善美など関係ない世界である。
何か組織集団化するとそうした宗教が追求したものが全くこの世の栄華を欲望を満たすものとして利用されたとなる

だから本来の宗教性はゼロである。宗教が山を聖として修行する、だから天台宗とは山岳宗教であり比叡山で修行したとなる
そこでは親鸞も日蓮も修行していたのである。つまり山の聖なる気に触れて修行したとなる
モーゼが十戒を授かったのもシナイ山だった。ただそこには岩山であり草木が無のむき出しの岩山である
それでも山を聖としてありまた砂漠でも不純物がない砂だけにしてもそこが一なる神が現れた場となった

●職業は業であり心を汚す、心を浄化する場の喪失

ともかく今宗教は全く世俗化して世俗より世俗的な場である。あらゆる欲望は肯定される。むしろどぎつい欲望を持てと指導しているから異常である。創価でもカルト教団が東京とか大都会から生まれたこと自体宗教とは縁のないものとして最初から生まれたのである。すべてが経済であり政治活動でありそれが世俗よりも拍車をかけて追及する場である
では何が本来の宗教なのかとなると大自然が聖なるものでありその大自然によって浄化されるから山で修行したのである

つまり今やそういう場が喪失した。だからなぜ禅宗がひたすら座禅を組んで沈黙するのかそれは日常の生活に持ち込めば異常となる。ビジネスでも常に口八丁手八丁で人を騙してでも金を得る、何か金融業はそういうことが多い
そもそもなぜ出家とかしたのか、それは職業というのがもともと人間の業でありいいものと見なかったのである
だから職業にたずさわらない出家して山に籠るとなったのである。ただそのことで世間でもそうした僧を認めていたことである
それはその人達が世間から離れて心を浄化することに意義を認めていたということである

それが現代では大衆宗教になった時そうした本来求めていたものが世俗が求めるものを倍加して求める
御利益を狂気のように求めて集団で祈る。それに従わない者は地獄に落ちると罰当たるとか言っているのだから信じられないとなる。だからこ現代の宗教はカルトなのである。大衆化して俗化したカルトである
そこには宗教が追求した真善美はない、そうした肝心なものがそこから生まれようがないのである
それは現代の文明の大都市からも生まれない、それは大自然に求めるべきものであり今でもその大自然は一億年前と同じように存在している。現代の宗教を標榜する場がもはやそこに本来の宗教は皆無である。

だから宗教を求めるとき大自然で心を浄化すべきだとなる。それは大都会ではできない、カルトととなり異常化する
だから奇妙なのは引きこもりが増えたというときその人達は昔のように山で修行する場を与えればいいともなる
何故なのかこの世で働くことは必ずしも心にとっていいものではない、心を汚すのである
何か金融業など見ると人を騙す職業なのかとも見る。それでそいう場で働いた人の人格は歪んでいる
それは怖いことでもある。老人になってそれが顔にも否応なく現れる。何かやましいことをしてきたことが自ずと刻印され顔に現れる。何か老人を見ていると世間的には成功しても金持ちになっても人格的には歪んでしまった人が多いかもしれない
そもそも現実社会で人格形成とか関係ない、むしろ金を得るには邪魔だとなる

●社会は人格形成など考慮しない、金儲けだけになる

職業でも人格形成するのはある。何か理系の人は堅実だというとき文系は何か人を騙す職業が多い
それは職人気質とかあり昔の職人は堅実であり人をだますようなことをしないで人格形成したとなる
農民でもそうである、そいう人達が社会の大部分を8割とか占めていた時代はかえって健全な社会だったのかとなる
トランプ大統領が株で儲ける人達を敵視して知識人を嫌うのはアメリカでもホイットマンの時代は農民とか職人とかが働く人達でありそういう人達を賛美していたのである。

ともかく心を浄化するとかなど今のカルト宗教にはない、そんなことを言っていたら人が集まらないからである
心を浄化するために山に籠り沈黙しろなどと言えば誰もついてこないからである
御利益があると執拗に言えば大衆はついてくるとなる
それも異常なことである。だからカルト宗教は本来の宗教とは何の関係もないのである
では心を浄めるというときどうするのかとなるとそういう場がなくなったのだから大自然に求めるべきだということは天台宗が山岳宗教だったようにそこに心を浄める場がある。それは変わりないのである。
自然は億年であり無傷でそのまま変わらずにある、人間の社会は変わりすぎたのである
とても一千万の東京とか大都会が何なのか理解することは不可能である
そこで精神を正常に保つことは不可能だとなるからカルト宗教が生まれたのである、それはナチスに似たものとなるから怖いものともなる。

なぜ現代の偉人がまともな人がアウトサイダー化したのかそれはカオス文明社会で本来の人間たらんとしてそうなっただけである。現代文明のカオスに非人間化に耐えられないとなりもともと優れた天才とかはそうなったのである
それは社会から見れば異常な人であり認められない、でもその独立不羈の個人が正常な人だったとなる
宗教団体であれ組織化集団化すると個々人は認められないのである。社会が認めるのはそうして集団化した団体であり個々人は認めないのである。そこではまとまった票が得られるとか金が集められるとなる。個人は百万票で当選するとなればそんなもの何の力にもならないとなるからである。

なぜ現代で世界でも引きこもりが多いのか、それはやはり心浄めるというといとき社会は人格形成とかを考慮しないからナイーブな人が適合できないからかもしれない、私自身そうだった、社会に適合できないから引きこもりになった。
だから私のふさわしい場は山で沈黙業する場だっとなる

口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。
19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、
20 これらのものが人を汚すのである

こうならないことは世間の中で仕事するとなるとむずかしい。第一沈黙していること自体異常な人と見られる
でも大自然と同化することは山が千年沈黙しているように沈黙せねばならないのである
とにかく芸術にしても詩を作るにしても大自然と合一するとき沈黙せねばならない、それが宗教の修行と同じだったのである

●上野霄里(しょうり)氏の言葉

詩は社会と断絶した隠者的な風格を備えていなければならない。

なぜ彼があれほど集団組織を嫌ったのだろうか、それは集団の中で個が抹殺される、集団化することは黒だったら黒一色にすることである。赤だったら赤一色にする。カルト宗教団体ではそうなる。まるで企業戦士のようになる。揃いの背広を着て同じ色になる。それはナチスと似ているのである。
それに反してあれほど苛烈に組織集団を断罪したことには驚嘆するしこれは何なのかとなる
その時一人の個人のみがクローズアップされる。そんな人間いたのかという驚きである

その堂々たる直ぐなるもの
力に充ちて威厳あり
その慧眼は神的でもある
天才のみがもつ生来のもの
一つの主張が常に貫かれている
内部が火のように熱く燃えている
直ぐなるものとして貫かれる
厳格なる巌のごとく
原生人間は本来の人間を蘇らす
その足は大地を踏みしめ
確かな足跡を大地に刻印する

組織集団を断罪してその個なるものが強力に主張される。だから稀有なる人だとなる。何故ならみんな組織の集団の一員となるべき必死になっているからである。ただ天才のことは平凡な人は理解できない、そして偶像崇拝になる
それは天才と凡人の差が大きいからである。確かなことは組織集団は雲散霧消しても強力な個人は残る
その足跡は明確なのである。

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