2025年07月03日

アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神とはーヤコブがイスラエルの祖 【集団には現れなかった神ー個々人に現れる神】

アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神とはーヤコブがイスラエルの祖
【集団には現れなかった神ー個々人に現れる神】


「アブラハムと契約を結んでくださった神、その契約を息子イサク、そして孫ヤコブへと継承してくださった神」という意味です。アブラハム契約はヤコブの12人の息子に、そしてイスラエル民族へと継承されました。その意味において、イスラエル民族は「あの契約の子孫」(使徒3:25)なのです。契約の内容は、土地・子孫・祝福の3項目に及びます。

兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に彼がペヌエルと名付けた場所)で神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが後のイスラエルの国名の由来となった

神とは何なのか?神はアブラハムに現れその息子たちに継承された。神は集団に現れないことは確かである
個々人に現れた。その一人に現れたのが基になりイスラエルという名が生まれた。それが今イスラエル国家になっている
何かイスラエルとなれば今では一千万人住んでいる。だからそうしてもともと一人に現れた神がその全員に現れたと錯覚する
へブル人―ユダヤ人という民族はアブラハムを父祖としてその子孫が増えてへブルーユダヤ人の神となった。

その民族から子孫から神の一人子、キリストが生まれることが約束されていたのである。

契約の内容は、土地・子孫・祝福の3項目に及びます。

今のイスラエルはカナンの地は神によって与えられたものである。それでユダヤ人がそこに国を作ることは正当化される
でもカナンには別に先住民がいたのである。それでカナン語が話されたいてそれがヘブル語にも伝えられている
つまりへブル人は新来者でありというとき何か聖書に現れる人物は最も古いようで実際はそれより古い民族がいたことになる。

なぜこのことを言うのかとなると宗教という時常に集団化組織化している。信者は教会に集まり礼拝する
でももともとはそうした集団に神は現れていない、あくまでも個々人に現れたからヤコブの神となる
ヤコブに現れた神なのである。だからそもそも集団化組織した所に神が現れるだろうか?
何か民主主義だから何でも数が集めれば願いがかなうとなる。信者でも百万人一千万にでも集団化していのれば神が現れると思う、要するに神も投票して数が多ければ神を呼び出すことができるとまでなる
これはキリスト教でなくてもカルト宗教になると仏教でもそうである。
数の多さによって神仏は認められるとなる、一人が信じても何の効果もなとなる。その人など見向きもしないとなる
そしてそれだけ人数を集めるとそこに何かあるとなり注目するのである

キリスト教でも宗派があるというときなぜそうなるのか?

それは個々人に現れた神であり個々人でもそれぞれの個性があり違ったものになる。日本だと内村鑑三が無教会を唱え武士道キリスト教となりキリストの幕屋の主催者の手島郁郎は原始福音を唱えて奇跡を起こした。
その始まり内村鑑三であり手島郁郎でありその個人に聖霊が下って起きたのである
ただ個人となると性格も個性も違うから個人から起きた宗派でも違ったものになった

だから現代は何でも集団化組織化するけど宗教でもそれも集団化組織化して社会の存在感をもち圧力をかける
我々の神でありみんなの神でありアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とならない
神の祝福は一人の人間に与えられてみんなに与えられるとなる
ところが実際はみんなに与えられて個々人に与えられるとなりともかく信者の数を集めることになる。
それはもはや神を求める団体ではなくこの世の権力を求める団体になる。
でもいくら数を集めても集団化した所に神は現れないのである。何百万人でも祈るのだから神が現れてもいいとなるが現れないのである。

そもそもイサクの子の兄のエサウから弟のヤコブがずる賢く兄をだまして長子の権利を奪うとかそんな人がなぜ神に選ばれたのかとなる。
別の神に選ばれた人は品行方正でもなく罪を犯さない人でも優秀な人でもなかった
だからそれも奇異だとなったのである。何故なら優秀な人こそ選ばれるべきとなるのが社会である
でもそういう人を選ばなかったというのが意外なのである
内村鑑三にしても手島郁郎氏で優秀もなかった。それで不思議なのは最も優秀な天才は神から選ばれないのである
むしろ天才は自ら神ともなるニーチェのように超人になる。

キリスト教でもカトリックが組織化集団化して強固なものとした。でも堕落したからプロテスタントが生まれた
プロテスタントは組織化しないから牧師も司祭もいない、個々人の信者が直接神と結びつくのである。
それはアブラハム、イサク、ヤコブの神だともなる。集団組織の神とは違うとなる
いづれにしろ集団化団体化組織化することはすでにこの世の勢力化したのであり本来の宗教とは違う
それえBODYは集まり、塊、集団、組織、機構、団体、機関、物体、実質の意味がある
一方でスプリットはそういうものではない、つまり組織化集団化したものはスプリットとは対象的なものである
つまりBODYは精神と霊とかとは対立するものである。だからそのBODYに神が現れることはない、それは物体化したものとなるからである。

キリスト教でなくても仏教でもカルト宗教団体はBODYであり集まり、塊、集団、組織、機構、団体、機関、物体、となる
それは数を集めてこの世の勢力化してこの世を支配しようとする。一人の人間に神が現れたのと違う
神すら民主主義によって数を集めて動かせるものとなる。ただその数を集めるとき精神は全く無視されてBODYとして働くのである。心の清い人は神を見るだろうというときあくまでもそうしたBODYではないのである。
そういう団体は数しか見ない、心は関係なくなるのである。

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BODY化することは俗化することでもある

ただ現実社会でこの世の勢力化したとき宗教でも認める。民主主義は数で決まるからである。何百万人の会員がいるとなればそれだけで何かあると世間の人は見る。だから時の政権でも宗教団体を票田としてまた支援団体となるとしてみるのである
それが一人だった誰も相手にしないとなる。また教会でも教会員は信者として見るがその他は見ないのである
でも宗教とは本来この世の勢力ではない、旧約聖書でも一人の予言者が現れて奇跡を起こしたりとかそこに働いたのは神であった。その神が個々人に現れ働きかけたのを記録したのが聖書なのである

ともかく現代は宗教はこの世の勢力化したものとなりそれは集団組織化でありBODYでありマスとなる
この世の勢力化したときまたそれが何かあるとして認めて利用するともなる
そうでないものは相手にしないし存在しないものにもなる。数を集め立派な会館と建てればこの宗教は凄いとなり存在感を示すのである。だからこの世の勢力化した宗教は本来の宗教ではないともなる

つまり宗教でも政治的に力を経済的にも力を科学技術的でも力を持てばそれが世間で宗教に注目するのである
そうでなければ現代では宗教に注目しない、集団化していないとまた注目しない、集団は圧力となり権力化するからである。
でも神が現れたの個々人でありその個々人に神が働いたのを記録したのが聖書だとなる
だからアブラハム、イサク、ヤコブのかみとなっていた。ヤコブの神がイスラエルの神となったのである
でも現代は集団があって支持されたものが神となる。これは人間の方で神を選びその選んだ神に帰依するとなる
人間が神を選ぶことはできない、全権は神にあり神が選ぶのである。それはもともと一民族ではなかったのである。
キリストがユダヤ民族主義者に殺されたのは万人に神が現れるのではなく選民のへブル人―ユダヤ人に現れ救うと信仰だから
キリストはユダヤ民族主義者に殺されたのである、今でも頑なにキリストを神の一人子として信じないのである。







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