2008年09月15日

野馬追いの旗の分類(6)−旗印は村々で同系統だった

野馬追いの旗の分類−旗印は村々で同系統だった

●日本人の姓

日本人の姓は外国とは違う、同じ農耕民である中国や韓国とも違う、血統主義、一族主義が姓の起こりである。ヨ−ロッパでもそうである。だから姓の数は非常に限られている。これは遊牧民系統の文化である。聖書でも執拗に聖なる種族の系譜がアダムからたどられて延々とその系譜が伝承される。これは神の民の継続を重視したからである。遊牧民は土地と関係しない、羊を連れて土地を渡り歩くのだから土地に固執しない、だから彼らのより所は土地ではない、一族意識であり属人主義である。一方日本は属地主義、なにより土地が重要であり土地に従属するのだ。結果として無数の土地の名が姓と化しているのだ。姓の基をたどれば必ずその姓の発した地名がある。そして日本では容易に養子にする、血統主義ではないのだ。外国では養子制度というのはない、財産相続も血統主義である。日本人が土地にその生活の根拠があり武士ももともと農民だから土地こそ第一に考える。日本では特別に属地主義で村は一つの結束した一族の集団と同じである。そこをわきまえて野馬追いの旗の出自を考察する必要があるのだ。

相馬氏は相馬一族の姓でありその姓が土地の名となった。これは日本ではあまりない、北海道では伊達氏が移動して伊達市となったが明治以前の国内ではあまりないことである。相馬氏は特殊であった。それで相馬一族の支配が長く濃厚につづいた。その間に国替えもなく明治まで継続したので資料が豊かに保存されているので相馬藩を参考にして研究がしやすいとされる。野馬追いの旗にしても姓と深く関係しているのだ。なぜその旗印を使うようになったかというと姓が問題になる。その姓の人と旗印が関係している。ただそれを解きあかすことは今ではかなりむずかしい。相馬氏は千葉氏の流れをくみ相馬氏が移住してきた。旗印はこの土地に由来するものではない、それはその前から代々伝えられたものでありすでにその由来は不明なのが多いのだ。なぜそれぞれの姓の武家が旗印をもっているのかその由来をたどることはむずかしい。ただ武田や伊達の旗印があればわかりやすい、他は種類が多くわかりにくいのだ。姓も多数あり混交しているからわかりにくい。わかりやすいのは葛尾村関係の松本姓である。ここは三分の一が松本姓だからわかりやすいのだ。飯館が山中郷として相馬藩に組み入れられて松本氏は相馬藩内に松本の姓をもたらしたことはわかりやすい、他に伊達氏から佐藤氏が20パ−セント移ってきたとあり佐藤氏が相馬氏に多いのは伊達氏から移ってきたからである。

●旗印は村々で同系統だった

相馬市史を調べてわかったことは野馬追いの旗印で一番わかりやすいのは村の旗印が共通していたことである。村々で同じ系統の旗印を使用していた。だからある程度、旗印をみると比べるとどこの村からでてきたかわかる。もちろん郷ごとに行列が組まれるから相馬藩内での地域別、村別に行列は編成された。相馬藩内でも行政単位は村であり村を中心に武士も土着して郷士になっていたから当然である。野馬追いの旗印の由来を解きあかすことはむずかしいのだが村ごとに同じ系統の旗印だったことは明確でありこれを基本に旗印を見ておくのは楽である。

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これは非常にわかりやすい、門馬の一族が村に土着している。門馬が中心で次に佐山氏や渡辺氏がその仲間に入った。つまりこの旗印は門馬氏に習って同系統のものがあとで作られたのだ。先に村の中心は門馬氏にあった。そうでなければ同系統のものにするはずがないからだ。つまり金谷村はこの旗印で統一されていた。村は同じ系統の旗印で野馬追いに出陣した。江戸時代は村が行政単位であり結束が強かった。姓は相馬一族として移動してきても村では同じ系統の旗印となっていた。野馬追いの旗印で明確に分類整理できるのは村は同じ系統の旗印が多い。つまり一つの姓から分家となったりあとから村に入ったものは同系統の旗印を使うようになった。一本線をたしたりして区別したが同系統の旗を使ったのである。だからもしこの村中心の旗が野馬追いの行列に出ればどこの村か判別できるからわかりやすいのである。

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高玉氏はカタバミの紋が旗印であり菅野氏はあとから山中郷に入りカタバミの紋の旗印を採用した。後藤氏と五藤氏は同じであり分家したのである。旗印が全然違ったものになっているのはなぜかわからない、ここでめずらしいのは関根村の関を旗印としたことである。普通は姓を中心としているから一族意識から旗印が作られるがここでは関根村という村意識から旗印が作られている。これは山中郷はあとから相馬藩に組み入れられたから新しく村意識があり関の旗印を作った。山中郷には新しい旗印が作られたのである。最初に○に山の旗印が山中郷を象徴していたとしたが山は山田氏でも山の旗を作っているからそうではなかった。ただ山の字自体を旗印としているのもあり山を意識して旗印にしたものもある。ここでももとは一族意識の姓の旗印だったのがそれぞれの村に土着して村意識の旗印と変化したことが関の旗印で如実にわかるのだ。

相馬市史に旗印と姓と村を記したものがあるからこれを研究すれば系統がわかってくる。野馬追いの旗印でどこの村から出たのかは判別できるのだ。

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参考にした本

「相馬市史6」
posted by 天華 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
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