2008年10月19日

万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない

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万葉集の「松がうらにさわゑうら立ちまひと・」の東歌は当時の景観のイメ−ジと合わない
 

万葉集巻十四東歌
 松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

 
「松が浦に潮騒が高く立ちひびくように、人の噂(うわさ)はうるさいけれども、私があなたを愛(いと)しく思うと同じように、あなたも私を思っていることであろうよ」
http://www.minyu-net.com/serial/manyou/080213/manyou.html
 
この歌は方言が使われているから東歌でありそこまではわかるのだが松川浦かどうかは疑問である。地元に住むものとして万葉時代に松川浦にそもそも人がどれくらい住んでいたのかそこにいかなる暮らしをしていたのか不明である。そもそも松川浦の回りは湿地帯であり人は容易に近づけない場所だった。谷地や新沼とか蛇淵とか人が歩いても行けないような所である。地蔵川から新地の方まで湿地帯は広がっていた。
 
相馬市和田、小泉川の下流で松川浦に注ぐ少し手前を蛇淵といい、大蛇が住んでいるという。

万葉集時代だったら松川浦に出るのは川が三つそそいでいたから丸木舟のようなもので出た。明治になってもこの三つの川は細く運河のうよなっていたから舟を使いやすく幸田露伴は舟で松川浦まで下ってきたのである。松川浦の回りは広範囲に湿地帯でありあとで開拓されて田にされた地域である。もし松川浦に接して住んでいる人がいれば浦風を受けてその浦風に波立つのを見てそうした歌を作るのも自然である。でもそんなに身近に浦風を感じる所に住んでいなかった。つまりこの歌からは何かにぎやかなものを感じるし人の多くいる地域をイメ−ジするのだ。当時の情景は相当に広範囲に湿地帯でありその湿地帯の中に松川浦があり人の住んでいる地域とはかけ離れていた。だかち松川浦に出ようとしたら丸木舟のようなものになってしまう。すると松川浦に接するのは丸木舟で出たときだけであるから日常的に松川浦の浦風に波立つ風景を見ていないのである。万葉集には誤解しているのが相当あるのだ。みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆいうものを−笠女郎・・・の草原もこれは萱が一面に繁っていると勝手にイメ−ジされたがこれは地名であった。なぜなら当時は萱や芦が繁っている地域はいたるところにあり珍しいものではなかった。海岸線は奥深くまで釧路湿原のようになっていたのだ。葦原瑞穂の国だったのである。そうした萱原が美しいという発想もなかったのである。それは蛇淵とか人を容易に近づけない荒涼とした自然であり美しいという感覚はない、面影にして見ゆというときその荒涼とした自然ではない、都の人が出入りする湊の景色だったのかもしれない、そこがただ荒涼とした自然だけだったら面影に見ることがないからだ。人がそれなりに出入りするから都に知られ憧れの地域となったのである。万葉集の歌をイメ−ジするとき当時の自然景観とかけ離れてイメ−ジしてしまうのである。
 
中納言俊忠(ちゅうなごんとしただ)の「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ(人知れずあなたを思っています。浦風に波が寄るように、貴方のもとへ通いたいものです)

旅の空ふく浦風の身にしみていとゞ都の人ぞこひしき(お伽草子−美人くらべ)
 
一歩都から出れば自然はむき出しになり荒涼としていたから常に人恋しいとなるのが普通である。逆に現代のような人と喧騒にあふれた世界では太古のままの自然にいやされる。そこには人はいない方がいいのだ。船溜から岩子までの松川浦はその太古の自然を感じた。そこには一人も歩むものもいなかった。そこからは広い松川浦が一望できた。そこに鴨が浮いて悠然と鳥が翔るのが見えた。
 
松川浦秋の日静か鴨の群れ人知れず浮きもの思いなしも

松がうらにさわゑうら立ちまひとごと思ほすなもろ我がもほのすも

この万葉集と推定される歌とは逆のイメ−ジとして松川浦は当時あった。人の気配すら感じられない所に鳥のみが飛びかい憩う姿があった。つまりこの万葉集の歌からは何か人が多く住んでいる地域をイメ−ジする。頻繁に人が行き来するからこうした恋の歌も生れる。噂がたつということはそれなりの人が集中して住んでいた村があったのだ。しかし松川浦には荒涼とした人も入らない浦でありこの歌がここから生れたとは思えないのである。人の思いもない人の思いも及ばない浦だったイメ−ジなのだ。我がもほのすも・・ではない・・もの思いもなし・・・の世界がぴったりするのだ。一方で真野の草原はそれなりに人の出入りしていたから都の人が憧れる地域となっていた。ただ真野の草原と松川浦は近いのだからここにもう一つくらい万葉集の歌があっても不思議ではないこともある。でも東歌は関東地域が中心だから霞ヶ浦辺りの松ケ浦かもしれない、あそこなら相当に人が住んでいたからである。真野の草原は都の人が出入りしたからであり地元の人でにぎわうとは違っていた。この歌のイメ−ジは地元の人でにぎわっていたイメ−ジなのである。
 
蛇淵に月こそ写し鴨群れつ人知らじかも芦のさやげる
 
人の思いはまだここになく芦がさやぎ鴨が群れていてもその鴨も人と通じ合えるものではない、人はなく荒涼とした浦に鴨だけが浮いていたのである。
 
百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや、雲隠りなむ
 
この池も極めて人間の思いが強く残した池であり鴨であった。そういう人間の強い思いがこの松川浦に反映されたとは思えないのだ。松が浦の歌にはすでにそうした人間の思いが自然に強く及んでいたから当時の風景からすると違ったものではなかったとかイメ−ジする。
 


松川浦秋の日静か鴨の群れ芒なびきつ人影もなし


松川浦岸に芒や秋日さし歩む人なし鳥の翔けゆく

松川浦岸辺に秋の日のさして行く人もなく浦風吹きぬ

浦風に芒なびきて淋しかな岸辺の稲の刈られけるかな

松川浦岸辺にかすか虫の音や真昼静けく稲は刈られぬ

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