2008年10月30日

秋深む飯館村の道(飯館村の今と昔)

iidatendtree1.jpg

秋深む飯館村の道(飯館村の今と昔

●水境峠から「森の駅」−「あいの沢」−大倉


川俣より水境峠を越えて

二枚橋、臼石にいたり

飯館村の道の辺に一本の樹

秋の夕日さしてここに暮る

何故かこの樹の心に留まり

我はこの一本の樹に寄りぬ

作見の井戸とあわれも

昔豊作の願いは強く

不作は飢饉にも通ぜし故に

村人はここに集まり真剣に見る

宝暦の飢饉の供養の碑

その犠牲の悲惨を伝えぬ

飯館の新しきホテルの湯

黄落を見つ老二人浸る

遠くより訪ねて泊まる人もあり

木の葉の静かに散りぬ

あいの沢の木道に残り咲く竜胆一輪

心にしみて山路めぐりて

峠を越えて大倉に下る所に

なお一軒の家は残りぬ

一軒は廃屋となりてあり

飯館村の草野と大倉は山にさえぎられ

今は近くなれども遠きかな

佐須はここよりさらに奥地

玉野とも通ぜし道に卒塔婆峠

今は行く人もなく埋もれし道

山にさえぎられ峠の多く難儀せし村々

その灯(ともしび)静か秋深まりぬ


●作見の井戸(昔は真剣に見守っていた)

川俣から水境峠を越えて飯館村に入ったがここの坂は延々とつづく、日本は坂が多いが坂と峠は違う、峠は国字であり日本は山国であり大きな急峻な峠が多い、峠はまさに国を分かつ国境である。川俣からこの水境峠を越えるのは容易ではないということは自然の境界でありまた歴史の境界ともなる。相馬藩と伊達藩の境になる。会津の八〇里越は実際は八里なのだがあまりにも険しい峠道なので八里が八〇里に感じられるというのはまさにここの峠も同じ感覚だった。自転車を押して歩けばそうなる。車だとこうした道も軽々と過ぎてしまうので昔の人の苦労がわからなくなってしまうのだ。
この峠の頂上にも田があり稲が今実っていた。地名にすれば峠田となる。日本では耕作地が狭く少ないからこうしたわずかの土地でも田にした。ここは川俣の方から上ってくるのは大変である。とすると飯館の方の人が作った田なのだろうか、今なら車で簡単に行けるが昔ならこんな不便な所にはなかなか行けない、でもこうした不便な所にも田を作り米を作ることが日本の農業だったのである。

飯館村で有名なのは作見の井戸である。

古来、寒の節の水量でその年の米の豊凶がわかるとされている井戸。水深2.25mを境に、それ以上を豊作、それ以下は不作といわれている。

飯館村は高地だから飢饉になりやすかった。宝暦の飢饉は悲惨だった。それで供養の碑が建っている。だから作見の井戸というとき今は真剣さがないが昔は村人が真剣にその井戸の回りに集まって豊作か不作かを見守っていたのだ。昔の祭りは今の祭りとは違う、そもそも真剣な祈りがありその吉兆も命にかかわることがあり現実に村の娘が雨乞いのために犠牲に捧げられたとか伝説にあるから真剣だったのである。今なら交通事故にならないようにとか願かけたり株の上下などで一喜一憂(いっきいちゆう)するのと同じである。時代が変われば何に真剣になるか変わるのである。今とは違い不作になることも多い地域だから真剣に豊作になるかどうか見ていたのである。最近できた「森の駅」による。ここで米のパンを買った。これは厚いし食べてみても米とはわからないがやはり麦とは違うのでパンは麦でないと味がでないので困る。でも麦が高くなってきたから米のパンでも食べる。現代の山村問題として過疎があるがこれは深刻である。

学校や病院がどんどん、無くなっているし、公共交通も廃止。 車もない老人は、もう住めない状況だからなあ。
うちの親父も、長いこと入院して逝ってしまったが、家から100km離れている病院に行くしかなかった。
出来れば、地元で過ごさせてやりたかったけどな。
効率性のみを追い求めた小泉自民党で地方はガタガタだな。


100キロ病院と離れていたら大変である。ここから仙台まで80キロでありそれより遠いとしたらどれだけの山の奥地なのだろう?福島市までも100キロはないとするとこれは相当な僻地である。私も家族が入院したのが隣の市で自転車で通える所だったから助かった。でも車がないと病気になるとつくづく困ると思った。地元には大きな病院や専門の病院がないからである。山村では車なしでは住めない、その車代にも金がかかるから大変なのである。

●明治時代の飯館村の合併問題

「きこりの宿」で湯に入りあいの沢を出て大倉の方に出てきた。ここはかなりの標高差がある。大倉に入る前の山間に二軒の家があった。ここに共栄橋とあり戦後開拓に入った家であろうが一軒は残ったが一軒は廃屋となって残っている。共栄という名前で開拓に入ったことがわかるのである。これはもともとあった地名ではないからだ。飯館村史を調べていて面白かったのは江戸時代は交通が不便だから頻繁に隣り合う村と村さえ行き来が少ない、そして草野村と大倉村が合併できない理由が書いてあった。

「大倉村と草野村は民情風俗同一ならず、民業にいたってもまた大に異なる」

草野村はまた佐須村とも同じ理由で合併していない。つまり江戸時代までは隣の村すら遠い世界である。言葉も微妙に違っていたり風俗も違っていたりとあるが家の作り方も違っていたりする。現実相馬藩と三春藩を境にして家の作り方が違っていた。ただ民情風俗同一ならずというのが何を意味しているのか今ではわかりにくい、でもあれだけの峠があるとき峠を越えた向こうの世界は別世界を形成しやすいのだ。不思議なのは佐須村と大倉村はそういうことはなかった。でも佐須も大倉から相当奥地なのである。ただ古代から真野川を通じて佐須村とは通じ合っていたことは地理的に想像できる。昔は川が道となっていたからかえって川を通じて交流があったことは想像できるのだ。それにしても民業が違ってるとは何なのか、同じ山なのだからかえって仕事は共通しているように思えるが違っていた。伝説に残されている麦つきの男は大蛇だったというのも隣村から来るものさえ当時は異体の知れない神秘的な存在となっていたのだ。仕事が異なることはすでに人間は通じ合えないものとなる。だから木地師や鉄作り−たたらの民は山の民は神秘的なものとして扱われた。これは今でも同じなのである。ある人の仕事は大工関係なのだが木材を切る機械など資産が一億で売れると聞いたとき本当かと思った。それなりの額はしていてもそんなにはならなかった。でもそうした建築の仕事を知らない人はそんなものかと思ってしまう。素人には見当つかない仕事が今でもあるからだまされたりするのだ。人間仕事が違うとその仕事自体理解することがむずかしくなるのだ。デイトレ−ダ−などで何億もうけたとういうのもわかりにくくなる。だからたいがい昔あることは今も同じようなことはある。人間自体はそもそも変わっていないから同じことはある。

飯館村と相馬を結ぶ道として相馬の玉野村に通じる道があった。卒塔婆峠である。ここは今全く埋もれた道となってしまった。それでも高玉氏が飯館に境目付としてあり玉野村に高玉という姓が残っている。その旗印もカタバミであり一族が分布したことは確かである。飯館は境が多いから境目付も多かったのである。草野から大倉−卒塔婆峠−玉野村−相馬という道があった。ここは忘れられた道となった。一方二枚橋村−臼石村−関根、松怐A須萱、前田、伊丹沢村の七つの村が相馬村として合併させようとしていた。ここは相馬の延長としてとらえられてもいたのだ。いづれにしろ飯館村は歴史的には相馬の影響が大きかったし現実に相馬藩の山中郷になっていたし郷士も移り住み野馬追いにも出ていたのである。







posted by 老鶯 at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/22140136

この記事へのトラックバック