2008年11月19日

相馬焼のキ-ワ-ドから小話一つ

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相馬焼のキ-ワ-ドから小話一つ

津田君が三十匁の出殻(でがら)を浪々(なみなみ)この安茶碗についでくれた時余は何となく厭(いや)な心持がして飲む気がしなくなった。茶碗の底を見ると狩野法眼(かのうほうげん)元信流(もとのぶりゅう)の馬が勢よく跳(は)ねている。安いに似合わず活溌(かっぱつ)な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
「さあ飲みたまえ」と津田君が促(うな)がす。
「この馬はなかなか勢がいい。あの尻尾(しっぽ)を振って鬣(たてがみ)を乱している所は野馬(のんま)だね」と茶を飲まない代りに馬を賞(ほ)めてやった。


琴のそら音(夏目漱石)
http://novel.atpedia.jp/page.php?no=4200&p=2

狩野法眼東海道の昔の話(5) 筆捨山故事http://shimin-do.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido5.htm

また大徳寺で、狩野法眼元信の障壁画を拝観した時の句として、

   ほととぎす、絵に啼け、東四郎次郎
 
_________________________________________________________  
 田を荒らした画牛 山辺郡山添村中峯山
(旧山辺郡波多野村中峯山)


 昔、ひとりの旅僧が、中峯山の寺に宿り、十日あまりも何もせず、ただ、天王社(神波多神社)の壁に牛一頭だけ描いて、飄然と立ち去った。その後、村内では、稲田が毎晩何ものかに食い荒らされた。いろいろ探求して、その怪物は寺の画牛が抜け出しているものとわかった。それから、前の旅僧を求め、伊賀の上野で追いついて、牛のかたわらに松を描き添え、縄でその幹につなぎとめた形に改めてもらうと、稲の被害も、それきり止んだ。
この絵師は、狩野法眼元信であったという。村では今でも稲の用心のために、不寝番が行なわれる。また、毎年牛飼いは牛をひきいて、この天王社に参ることになっている。
http://www.7kamado.net/den_yamato/kanhata_den.html

牛や馬が農作物を食い荒らすというのは全国であったのだろう。だから絵師とその事実が組み合わせられてこうした

作者の狩野法眼(ほうげん)探雲は甘楽郡野上村(現群馬県富岡市)の生まれで、江戸に出て狩野派に学び、江戸城西の丸普請の際には障壁画の製作に従事したという。晩年は七日市藩の御用絵師を勤め、世に「上野(こうずけ)探雲」と称された。文化9年(1812)、88才の長寿を全うした。

狩野法眼(ほうげん)は伝説までなったのだから当時は相当に有名な絵師だった。絵師も渡り歩き藩主などの要望に応じて絵を描いた。相馬駒焼きに馬を描くようになったのは相馬藩に旅してきた絵師がヒントを出して描いた。内部より外部の人がそうした知恵をつけることは良くあることである。

狩野法眼(ほうげん)群馬県だとしたら福島県の相馬藩とは京、大阪よりは遠いことはない、この絵師に注目したのは漱石の小説に相馬焼のキ-ワ-ドで見つけてこの絵師のことを知ってまたインタ-ネットで調べたのである。郷土史はインタ-ネットで全国と結びつく・・・こんなことは今までできなかった。ここに新しい学問の方法が生まれたのである。インタ-ネットは利用することがむずかしい、常に編集作業が必要だからむずかしいのだ。そしてインタ-ネットは結びつけることが必要なのである。一見関係ないようなものが結びついて新たな創作を生んでいる不思議があるのだ。

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相馬焼というキ-ワ-ドでは大堀とかは必ず出てくるにしても狩野法眼はでてこない、関連しないしはじめて知った名だった。漱石の小説に狩野法眼とでていてこの人はどういう人なのだろうと検索した結果でてきたものがあり知識が広まったのだ。相馬焼と狩野法眼は結びつくはずがない、でも漱石の小説を介して結びついたのである。インタ-ネットの検索がなければ結びつかない、つまりインタ-ネットの知の世界は意外なものと結びつき関連したものとなる。これは脳の細胞とにているのかもしれない、脳もニュ-ロンで無数の神経細胞が結びつくからである。相馬焼からスポットライトをあびたのは狩野法眼になったというのは調べる方でも意外なことだった。こういうことが常にインタ-ネットでは起きている。抽象画でも化学変化のようにして抽象画を作れる、それは意図しないものが現れる、パソコンの操作で現れるのともにているのである。


福島県双葉郡浪江町大堀後畑

この地名も普通前田とか前畑は農家にとっては大事な田畑であるが後畑も普通にある。だから地名としてあっても不思議ではない、大堀は回りが田んぼと畑だから景色にもあっている。今時代的には茶の湯のような時間感覚が合わない、そこには相当な悠長な時代の文化の産物だった。今はスピ-ド時代になるからそうした悠長な時間をもてないのだ。相撲は仕切りを何回もやるからもどかしいのだか相撲は昔から江戸時代から変わらないからそうなっている。伝統行事でもあるからそうなっている。格闘技としてはすでに人気はなく伝統行事であり昔の悠長な時間感覚をとりもどすにはいいとなる。今は茶の湯よりコ-ヒ-である。冬の寒い時期にコ-ヒ-は欠かせない、相馬の道の駅で売っていたこのコ-ヒ-カップはデザインもいい、黒の線がいいのだ。こうしたものは愛用すると何かますますなじみ愛着を覚えてくる。やはり芸術品でも使わないものはすたれる。茶の湯は実際の生活に生きていないからただ茶碗を鑑賞するだけではすたれてゆく、芸術は益子焼を創設した陶工のように日常に使っているものに美を発見したようにやはり日頃使われていないと廃れるのである。芸術も生活から離れてはありえないのである。縄文時代の土器も生活から生まれたものであり芸術品としてただ鑑賞するだけのものとして作られたものでない、今の芸術品ではなく生活必需品でありそこに装飾性が加味されてあのようなエネルギッシュな作品となったのである。

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posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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