立冬や姉の納骨終わるかな
争いし時もありしも60年歳月ともに母の涙かな
長らえて人の悲しき九三の母の涙や秋の夜ふけぬ
認知症それは病となぐさむる死せば悲しも淋しかりけり
父死して五〇年長き母と姉我はぐくむも姉は死ににき
姉の手をにぎりあたたか意識なくまもなく死すも忘れざるかな
父の骨墓に残りぬ五〇年過ぎて思いぬ形見なるかも
父の骨姉の骨しも重なりて姉の望みし墓に納まる
集まりし人も少なく我が姉の納骨終わり冬に入るかな
今日は風も寒く本当に暦のように冬になった。姉の納骨は終わった。ただ骨をばらまくだけでありこれもあまりに簡単であった。葬式もあんなに簡単にやれたことは驚きだった。五〇年前の父の葬式は今もインドでやっているように野辺送りであり薪を積んで藁を積んで燃やしたのだから想像を絶するものであった。このとき自分は中学二年くらいでありそのショックはあまりにも大きかった。ここでは父をいたむというより人間の死ぬという驚きでありこのことは頭から離れなくなった。人間が死ぬことが人間の最大の問題はこのことにゆきつく、その他は枝葉の問題になるのだ。死ほど人間の無常を示したものはないし無力を示すものがないからだ。そのことはこんなに文明が発達しても変わらないのである。
我が家の事情はあまりに複雑であり小説は事実より奇なりというようにこんな不思議なめぐりあわせもあるのかとつくづく思う。その詳細をここで語ることはできない、それは長い小説になってしまう。ただ屍は骨という意味もあり姓も屍、骨だから骨が墓に残るからそうなったのかもしれない、父の骨がかなり骨らしく残っていたのは薪とか藁では十分に焼けないから原型が残っていたのだ。姉の骨は焼き場で焼いた骨はぱさぱさになってをりすぐに土になって残らない、野辺送りで焼いた五〇年すぎても骨は残っている。そこから骨が残るから姓は屍−骨(かばね)となったのかもしれない、姓の基は日本語ではカバネであり骨のことなのかもしれない、いづれにしろ五〇年すぎて父の骨を見たのはまだ父が何か自分に語り今また姉が墓に入ることの我が家の連続性を感じた。姓は家は共通した因縁で結ばれた共同体である。そこに二代しかつづかなくてもやはり百年くらいの連続性は残るのだ。たいがい五〇年過ぎ去ったら思い出すものもいない、組織や団体でも五〇年残ることは少ない、宗教団体でも消え去る。いづれにしろ姉は特に特別な事情から前の実母と父のことを思いつづけていたから今日父の骨と前の母の骨のあるところに入って本望だったと思う、冥福祈り納骨は終わった。・・・
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