2009年01月11日

相馬に残る九州の地名の謎(移民は九州からも来ていた?)

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郡山は、明治期の開拓・開墾によって発展していった町で、禄を失った各地の士族達がここへ集まった。その為今でも市内の各地には、久留米、薩摩などの地名が残っているし、 ・・・・・


明治は侍が食を失ったから大変動があった。北海道にも移住した。武士橋とかもあり本土の国の名前がつけられた。広島村とか伊達市とかは有名である。出身地の国の名前を村や街の名とすることは良くある。郡山も士族達が移り住んできた。そこで九州の地名が開拓地につけられた。でも九州となると郡山からすると地の果てのような地域である。なぜこんな遠くまで来たのか、北海道は新天地だから移住したことがわかる。明治の時代は相当な人の移動があった。特に武士は禄を奪われたのだから深刻だった。それで全国に開拓に入る場所を求めたのだ。

ここで問題にするのは明治時代ではなく江戸時代の相馬への移民に日向とか薩摩からわずかであるが移民があったと書いてある。この資料とかはまだ調べていないから不明である。越中からの移民は有名であるし資料も明確である。越中から相馬までくる行程は命懸けであり実際途中で力尽きて死んだ人もいるらしい、その頃人の移動は禁止されていたから必死の移民だった。昼間はお堂に隠れてひそみ夜進んだというのもやはりそのためなのか、御堂は隠れ場所にいいのである。雨宿りに御堂を利用したし雨露をしのぐのには御堂は宿にもなっていたのだからこれは本当のことかもしれない、ともかく大変な難行をへて相馬にたどりついたのである。

それで地名を調べると字地名でこれは国土地理院の地図にもでていない、国土地理院にもでていない地名があり村の地籍図として残っている。これも地名を知るには貴重である。

寺内→尾張屋敷 南海老村→越中前田 、豊後屋敷 小池→薩摩内 柚木→対馬谷地

これらの地名は今では使われていない南相馬氏鹿島町誌に記憶として残されていた詳細な地名である。尾張屋敷とあると名古屋の尾張から来た人が屋敷をもって住んだのかとなるし豊後屋敷とあれば豊前、豊後は九州の大分県の古代の国の名である。 対馬谷地に対馬とついているのも不思議である。これは単なる当て字かもしれないが尾張屋敷、豊後屋敷となると本当にその地域から移り住んだ人がいたのか?記憶としては残されていたのだ。越中前田とあれば越中は一番移民が多かったし明確だから疑う余地がない、しかし九州から移民した人があるとなるとその跡をたどることはむずかしい。ただ薩摩とあれば九州の薩摩を思い浮かべるしそれしか他に思い浮かばないのである。そもそもどうして江戸時代に九州から相馬まで来たのか?

その道のりをイメ-ジできないのだ。相馬藩政史にその記録があるのかどうかわからない、パソコンにデ-タ-ベ-ス化していれば薩摩とかのキ-ワ-ドで何かわかったりするからデ-タ-ベ-ス化は便利なのである。いづれるちしろ九州からも移民があったとすると相馬というのが全国に知られたからである。それだけ宣伝したからでもあったのか、相馬相馬と木萱もなびく なびく木萱に 花が咲く 民謡だが相馬に移民を呼ぶための当時のコマ-シャルだったのだ。それで全国に伝わったのか九州の人までもしかして対馬からも来たとなるとその遠さに驚くのである。 面白いのは北海道の豊頃町史に

とくにやませの吹かない上りには人力23人を要したそうだが、舟にロープをくくりつけ、入植者が故郷である相馬や越中の民謡を歌いながら荒涼たる十勝川の川岸を引くさまは入当時のたくましい生活の詩であった。http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/toyokoro_koutuu_kankou.html

こういうところに移住した人が国の民謡を歌っていたのである。民謡も意外なところに伝わる場合があるのだ。九州まで民謡が伝わったどうかは不明だがやはり相馬を知らなければ来ることもできない、何らかの情報が伝わり相馬を目指したのである。ただそれは今となっては埋もれ相馬の地に地名だけが残ったともなる。

posted by 天華 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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