2008年12月10日

冬ぬくし(墓は一人ではない、共同のもの)


冬ぬくし故郷の墓に姉眠る


冬ぬくし姉安らかに父母と眠る 
 

墓についてはいろいろ書いた。墓が自分にとってなぜ身近になったかというと買い物であれ外に出るとき必ず町中にある墓地の前を通る。そして家の墓が通りに面してあるから余計にその墓を意識するのだ。特にまた60年も一緒にいた姉が今度は墓に埋まっているので墓はさらに身近なものとなった。父が死んだのは50年前とかでありこれは記憶から遠のいてしまっていたが姉は死んで二カ月くらいだから生々しいのである。だから今度は病院に通う代わりに墓に通っている。墓に手をおいてどうしているとか語りかける。そして墓で不思議に思ったのは墓は一人の墓ではない、私の墓に埋まっているのでわかっているのは三人である。姉の母と私と姉の父である。姉の母は父の前の母だから全く知らない人なのだが今はこの三人は前の家族のように姉を囲んでここに埋まっているのかと思う、墓は共同であり姉だけを思うことではない、どうししてもわかっている三人を思い浮かべるのである。姉は事情があり特別に父母思いであった。だから父と母のいる墓に入ったことは霊も休まる場だったことは確かである。死んだ人にそんなことわかるのかというと不思議なのは姉一人ではない、今はその三人がいることを意識してしまうのである。墓にも歴史がありめんどうだが最初は庶民は墓はない、江戸時代に余裕ができて墓を作る人がでてきた。その時庶民に名字がないのだから墓は個人墓であり名前が彫られていたのである。家族の墓ではなかったのである。家族墓は明治以降にふえたのである。
庶民の墓は村の共同墓地に葬られた。ここで村の守り神、先祖となった。死者は共同の先祖となって村を守るものとなっていた。死者の霊は共同化して祀られていたのである。個人が墓をたてることは異例のことだったのだ。それを今墓にくるたびに感じたのである。だから姑にいじめられた嫁いできた嫁は嫁ぎ先の墓に入りたくないという女性が3、4割もいるのだ。墓は個人のものではない、共同のものだからそうなっているのだ。

 墓とは何かというとこれも実に不思議なものでありそんな墓には石でありもはや何もないということもいえるがでも墓を通じて死者に語りかけるとなんかそこに死んだ人がいるような気がするから不思議なのである。

小春日というと11月だから今は冬ぬくしである。暖冬きみなのか寒くない、寒いのも暑いのも苦手でありこのくらいだと楽である。北海道に移住するという人がいるが体力ないと無理である。むしろあったかい所がいい、今はともかく死んで誰にも迷惑かけないし本人も楽だし自分も楽になった。ただ死別はその人と絶対にもう会えないというのが残酷である。どんなに呼んでももはや会えない、とすると会いたいということが募り生きていたときのことがどれほど貴重な時だったか逆に思いしる。死んでも一目だけでも会いたいとなるのが死別なのである。その一目も会えないのが死別である。自分が死んで黄泉の世界でしか会えないとかなるから死別の悲しみ癒されることがないのだ。
 

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/25384262
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック