2008年12月11日

冬灯(介護の後に・・・世話されることの負担)


故郷の老人病棟冬灯(ふゆともし)


冬日さし患いなくも石一つここに久しくありにけるかな
 
「双葉 老人病棟」とかキ−ワ−ドできていた。どこの病院も今や老人病棟なのだ。療養型病院には今も同室になった老人がいるのか、その女性の老人は毎日ポ-タブルトイレを洗ってもらうときすまねえなすまねえな・・と10回くらい言っている、甥の嫁が来たときも言っている。見てる方でも辛くなる。今回介護で経験したことは世話される方も大変だということである。その心労が大変なものなのである。なぜかというとキリストが言うように無意識の内に善行が成されることは普通の社会ではほとんどないのだ。私はあなたを世話しているんだよという負担が目に見えて成されるている。だからつくづく毎日認知症の老人が病院の廊下をまわり「お願いします、あたがとうございます・・・」言って歩くのも認知症でも世話されていることを感じているからそれだけは忘れずに経験から言っていることがわかった。また普通に世話されてもあとでいいろ要求されるから金で割り切って世話された方がいいともなる。いづれにしろ世話されることはこれほど大変なものかと実感した。毎日のよう自分も礼を言っていたし気を使っていた。ただ一人なんか今でも不思議なのだけど近所の人で認知症の相手をしてくれた人は無意識でやっていたのだ。その人はだからほとんど負担を感じさせなかった。あういう人はやはり本当に善行をした人である。たまたまその人の性格からそうなったのである。その人は今でも何か特別なことをしたとは思っていないのである。その他は余りにもかえって負担となってしまった。私の家では私自身も何か世話になるということがなかった。これは特殊なことであり他の家族ではいろいろ問題が必ず起きているのだ。
 
冬日さし患いなくも石一つここに久しくありにけるかな
 
こうあることはつくづくどれだけの幸せか今ほど感じることはない、幸福とは積極的価値で図るべきではない、消極的なものなのである。病気にならないとか事故がないとか当たり前なことが幸福なのである。一旦病気になり事故になり不幸がくると全く反転してしまう。戦争などになったら幸福は吹っ飛んでしまう。戦争は人間にとって最悪なものなのだ。人間は幸福を求めて生きているけどそもそも幸福を求めること自体間違っている。不幸にならないことが幸福であり積極的に幸福を求めることは不幸を作り出す、もっと金持ちになりもっと偉くなり幸せになりたいとかなると不幸になってしまうのである。なんか知らないけど今ほど自分は幸福を感じているときはないのも不思議である。 障害者はえてして素直な人がいないのでは、性格がゆがんでくる、自分で何もできない、世話になるばかりだとなるとどんな人間でも自分に自信をもてないし様々な面で負い目を感じるから素直になりにくい、人間は一方的に世話されることは実際はかなり辛いことなことがわかった。そもそも人間は互いに世話になったり世話したりと互いに助け合うのが普通であり一方的に助けてもらうだけとなると正常な関係は保てなくなるのだ。


   (マ タ イ  6,1〜6 16〜18)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである
 
まず現実社会では本当にこんなことはほとんどない、慈善事業もそうだしすべて意識的に行われている。だから相手に負担となるのだ。日本でも義理と恩であり義理を欠く、恩を受けたら払わねばならない、だから本当の善行を見いだすのはありえないくらいむずかしい。人に隠れて見えず無意識的なものは世の中にそもそも表立たないものだからである。でもそれを神が見ているとなる。つまり神のみが知り人はしらないとなるからだ。それが神から見た善行だとなってしまうからである。
 
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