2008年12月19日

岩手冬の旅(宮古から盛岡へ)

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(宮古→盛岡)

閉伊川宮古に流る冬の川

岩の間に水晶の流れ冬の川

冬の川水底の透きて岩手かな

白樺に流れの透きて雪の朝

冬晴れや山々厳し岩手かな

冬の日や朝にも暗き日蔭かな

岩手なる曲家一軒朝の霜

犬駈けて湯気たつ家や朝の霜

薪を積み曲屋一軒冬支度

冬の日や老木三本上米内




宮古より雪の早池峰朝清し我が望みて電車にのりぬ

山の家枯木の影の露なり薪を積みにつ冬籠もるかも

昔より暮らしありにし地図見れば夏屋とありし山深きかな

伝えたる夏屋に残る鹿踊り山の奥処にひびく楽の音

山深み小国とありて支流なれそそぎし川や冬深まりぬ

早池峰や山の深きや宮古より船はいずるも相馬にまでも

塩運ぶ道のり遠く盛岡や宮古と結ぶ山の宿かな

日本国小国とあるは山深き閉ざされし地や冬深まりぬ

区界(くざかい)に電車泊まりぬ高原に白樺ふえて朝雪積もりぬ

区界は着くは遠しも宮古側盛岡側とここに別れぬ

山深み清流ひびき雪の峰や連なり映ゆる岩手の朝かな

みちのくは広しも帰りて我が思ふ岩手の山奥冬籠もる家

「閉伊川宮古に流る冬の川」この句で閉伊川宮古で二つの地名が入っている。それだけで多くのことを語っているのだ。閉伊郡という地域は広いし歴史的にどういうところか今わからない、でもこの漢字からイメ-ジする。閉ざされた地域でありそこに一すじ北上山地の高地から冷たい澄んだ水が流れている。北上山地は広大な領域である。阿武隈高原ともにているが山が高いしさらに広いからこの地域はチベットだというのもわかる。だから山人をテ-マにした遠野物語が生まれたのである。ネパ-ルでも万年雪が溶けて流れる川の水は手をひたすとしびれるほど冷たいのだ。二千メ-トル級の高地に村があるのだから驚く、この北上山地も多少にているのだ。


日本は地名からイメ-ジされることが多い国である。外国でも地名はそれなりの共通性があるが日本ほど地名が豊かな国はないだろう。変化に富んだ地形がそうしたともいえる。ここでも日蔭という地名があり朝からすでに日蔭になっいる場所が山深いから多いのだ。日影山とかも多いのが山国の日本なのである。それから小国川という支流が閉伊川に流れ注いでいる。この小国という地名は閉ざされた山奥にあるのが多い。阿武隈の中央にもあるし山形県の小国も大きい町となっているがここも電車で行くと相当奥に入った所になる。青森県では一軒宿の温川(ぬるかわ)温泉に行った時もそうだった。その時は雪に埋もれていてトンネルをくぐるとそこが小国という地名なのである。だから小国とはこうした山の奥に入った村につけられた名前なのだ。これは全国的に共通している。そこは閉ざされた一つの小さな国ともなるから名付けられた。

曲屋でも薪を積んで冬支度をしているのをみると冬は自給自足の備えをして本当に冬籠もりしていたのだ。外とは交流することがむずかしいからだ。そして必ず曲屋では馬を飼っていた。これは全国的に必ず馬を飼う農家があった。これも今から考えるとうなづくことがある。今は田舎では一軒に一台ではない、一人一台車を持つ時代である。そうしなければ生活できなくなっている。昔も馬は一軒で何頭も飼っていたのである。特に岩手は馬の産地であり戦時中も軍馬の供給地であり馬を飼うに適していたのである。夏屋という地名があるがこれも出小屋であり夏に利用したからだろう。夏川とかつく地名は夏に利用するから夏がついたのかもしれない、夏に利用して小屋を建てて住んだ。そのうちそこに永住するようになった。古い鹿踊りが伝わっているのもすでにそこが古い村になっているからだ。
地形的に区界(くざかい)は本当に境界である。盛岡側と宮古側に別れる地形的境界であり相当な高原でありすでに雪が積もっているのもわかる。釜石まで行って作った賢治の詩はこの辺りの景色を見事に表現している。この当時はまだ区界を越える鉄道は開通していない、相当な高原で難所だったからだろう。

あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹(あをぞら)ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる、
  (鉄鉱床のダイナマイトだ
   いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
   ……そこでは叔父のこどもらが
     みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす


       平成二年三月   釜石市


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これは釜石で碑になっている。 「鉄鉱床のダイナマイトだ   いまのあやしい呟きは!」賢治は鉱石関係の会社でも働いたから鉱物資源に興味があった。現実に北上山地は鉱物資源があった。気仙沼近くでは金もとれていた。「二十世紀の太平洋が、青くなまめきけむってゐる 黒い岬のこっちには 釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド・・」鉱物のことがしきりと語られる。
東北は古代から黄金がとれる場所として注目されその後も鉱物資源で注目されたのである。その他この広大な山地では他からは無用のものとなってしまう。ただ現代の喧騒文明ではこうした無用の広大な山地が癒しとなるのだ。賢治の文学もこうした広大な原始的山域が残っていなかったら創造できなかったろう。これは福島県とも相当違っている。会津はそうした山域があるにている。

二十世紀の太平洋が、青くなまめきけむってゐる 黒い岬・・・これも三陸の港を象徴している。
四国とか瀬戸内海とか九州でも外国まで通じる明るい港ではない、唯一気仙大工が造船にたづさわったという伊達政宗の支倉常長をスペインに派遣した船は快挙だった。その他は外洋に出ることはなかなかできていない三陸の港であり陸に閉ざされた地域である。だから閉伊川なのである。宮古は都でありこの地域では後ろは北上山地で遮られ前は海でさえぎられている。都というと宮古しかないのだ。それでも北上山地を越えて盛岡に塩が運ばれたり宮古から南部の鉄が船で相馬まで運ばれていた。つまり宮古はそれなりに海から外に開ける唯一の都だったのである。

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ロ-カル線の危機(旅情が消える)-青春18切符の旅(区界の雪)
http://musubu.jp/jijirailway.htm

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