
海水が深く侵入して大部分が海中に没していたらしい。その海は栃窪の付近まで湾入し、一つの内海を作り、波もなく静かであり瀬戸内海のようであった。ただわずかに烏崎や江垂の大窪、屋形、海老などがの丘陵その他の小高い丘があたかも海面に浮かぶ島々のように美しく横たわっていたと想像される。(鹿島町誌)
どこに一番最初に人が住んだのか?それはやはりその場所がその地域で一番住むにいい場所であった。そのあとはだんだん悪条件の場所を開墾せざるをえなかった。だからネバ-ルでも条件の悪い高地へ高地へ住むほかなかったのである。では鹿島区で一番住みやすい場所はどこなのか?それは歴史的には浮田国造として最初の国として中央から定められた所であった。浮田から栃窪方面だった。栃窪は山の方であるが冠嶺神社などがあり御山には古代の貯蔵庫と思われる正倉があり鎰取(かぎとり)地名伝説が残っている。浮田から栃窪が最初に田に開墾された場所だった。ただその前に寺内-小池などが高台にありそこに金銅製双魚佩(こんどうそうぎょはい)が発見された前方後円墳がある。最初の集落はヨ-ロッパでも日本でも高台に作られた。低地は湿地帯とか虫の害で住めなかったのである。日本も葦原みずほの国であり低地はほとんど湿地帯であり海岸線も湿地帯であった。そこはあとから開拓されたのだ。だから小池は高台にありそこには古くから人が住んだ。しかし田を作るには適していなかった。鹿島町誌の最初の文に出ているように栃窪方面まで海になっていたというのはどうかなと思う、人が住み始めたときは浮田や栃窪は高台だから海にはなっていない、それより前はそうなっていた。平らな地域では今の鹿島町地帯は浮田より低いから湿地帯だった。群集古墳の円墳がある横手もそうである。
小池村は地の高く水乏しきよもって耕地はなはだ少なし、だめに小山田へ出作りするおよそ二十町歩なり、寺内は水を貯え多し。(大須賀・・巡村雑記)
小池と寺内は江戸時代には違っていたが古代ではやはり高台にあり水の便は悪かった。水無川があってもまさに水無だから供給できない、浮田、栃窪は水の便がいいから最初に田を作られた地域である。右田の方になると海に近くなると湿地帯だから田はあとから作られた。そこは水が良くないので米もうまくない、米がうまいのは今でも栃窪の山の方である。水の便がいいところに田が作られた。県-上田(あがた)が最初の国であるのはやはりそこに良質の米が作れたからそこが最初の国となった。小山田も古代は湿地帯である。あとから田にされた場所である。寺内から小池に古墳が相当数発見されているから人が古くから住んでいたのだ。ただ田にすることはなかなかしにくいところだった。たいがい古代の大きな集落は川岸にあったというとき桜井古墳がそれを証明している。川岸はやはり水の便がいいから住みやすいのである。でも海岸近くになると湿地帯だから住んだのはあとである。
南北右田村の東辺耕地の間に宅地あり、聞く、五十年前まではこの辺は葦芦叢生せしよ開墾し、新植の民家の宅よ構えしなりと。(大須賀・・巡村雑記)
右田辺りは相当な湿地帯だから江戸時代まで開墾していたのである。最初鹿島区では寺内、小池に集落があり次に田を作る浮田、栃窪に人が移り今度は今の鹿島町の鹿島神社があるところに移り群集古墳が作られた。前方後円墳の大きな古墳が国を形作るための象徴として最初にあった。桜井古墳も寺内の前方後円墳もそうである。そこの土地の人より外来の文化としてもたらされた面もあった。その土地のものではそうした大きな土木事業ができない、また古墳の文化もない、外来の文化が導入されて作られたから金銅製双魚佩(こんどうそうぎょはい)も埋葬されたのである。
浮田国造から古代の真野郷となったときその中心地は寺内の前方後円墳のあった場所だった。小さい円墳の群集古墳が横手にできたのは後の時代である。小池にも小さな群集古墳がありそれらは寺内の前方後円墳のあとにできた。古墳文化が民衆化して作られたのである。土地の有力者が増えて前方後円墳をまねて個々に円墳を作ったのである。これは墓というのが江戸時代には武家しかもてなかった。そのあとに農民も余裕ができてオレも侍のように墓を作ってみようということで小さな墓を作った。それは名字がない名前だけの個人の墓だったことでもわかる。一族の墓ではなかった。一家の墓が一般化したのは明治時代以降なのである。墓を作るには金がかかり墓を作ることが念願だったとか言う人も明治以降もかなりいたのである。古墳も墓の大きなものだから人間の心性は古代から変わらない面があったのである。
寺内古墳群(74基)
小池古墳群(20基)
江垂大窪古墳群(10基)
横手古墳群(13基)

これらは一番最初の海が広く湾入していたとき島のように浮かんでいた高台の場所だった。例えばもし栃窪までも海だったとするとそれは広大な海だからその美しさは今では信じられないような自然景観だったとなる。それで「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを」 笠女郎が歌った真野の草原の草原は萱ではなく地名でありむしろ広大な真野の入江であった。塩崎も深い入江であり船着と地名が残るごとく古代には船が入っていた。どちらにしろ深い入江でありその美しさを聞いて憧れた。それは大伴家持とだぶらせてこの歌ができたのである。真野の草原の草原(かやはら)のカヤは近江方言で入江のことだとインタ-ネットに出ていた。そのカヤは渡来人が韓国からもたらした言葉である。それが伽耶(カヤ)の国に通じているし渡来人も現実に古代に来ていた。「嶋□郷□□里」の「□□白人」の木簡はやはり渡来人だったからである。
泉廃寺跡の木簡
http://www.musubu.jp/kashimamanogimonizumi1.htm
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