2009年01月25日

越中富山の薬売りと相馬への移民(江戸時代の情報伝達の謎)

1690年(元禄3年)の参勤交替で江戸に出仕していた陸奥三春藩主秋田輝末が在江戸大名定例登城日に従って江戸城に登城したが、突然の腹痛に見まわれて七転八倒の苦しみを覚えた。周りに居た大名も、茶道坊主たちもどうして良いか分からずにウロウロしていたところ、同席していた富山藩主前田正甫が印籠に入れて携帯していた富山特産の反魂丹を服用させると、輝末公の腹痛はすぐさま快方に向かい、嘘のように治ったと言われている。この一部始終を目の当たりに見た諸大名たちが、前田正甫に対して反魂丹を大量に製薬して各地に販売するように要請したために全国に名が知られるに至ったという。

相馬藩からも代々の医者の家があり江戸に医者になるために行かせることになった。 医者と薬はかかせないものだが三春藩は相馬藩の隣だし相馬藩主の姫も過去に嫁いだこともあり三春藩の話はいろいろと入りやすかった。
この話は有名であり相馬藩でも語られていたのだ。

「江戸にはいろいろ医術のことや薬のことに詳しい人がいる、三春藩主から越中富山の薬が全国に広まったことは有名だからね」
「越中からは移民が来ている、あの人たちはまず一生懸命働くから感心だよ、相馬の飢饉では荒地になった所が多いが越中の移民が入り耕されて相馬藩も助かった・・・富山の薬売りはその後有名になったが・・・」
京之進、一生懸命勉強するんだよ、金もかかることだし遊んでいてはだめだよ、江戸は刺激が多いんだから、特に女性には気をつけることだ 時間を無駄にしては行けないよ、二年はたちまちすぎてしまうんだよ」
「はい、母上、一生懸命勉強してまいります」
「道中は気をつけるんだよ」
母は息子を叱咤してさらに父は加えて言った。
「跡継ぎにゃしっかりしてもらわねば、殿様も見るようになる、江戸で修行を積んだとなれば殿も認めてくれる、う、京之進、しっかり勉強して相馬藩のために尽くすんだよ・・・」


南新田村京之進伜門馬、仲衛医業心掛け、中村藤岡、朔庵殿へ随身致し、試業罷り在り候処、この度江戸へ表へ罷り登り、医業修行仕り度(たく)、御暇のお願い申し上げ候所、修行のため弐ケ年御暇、願いの通り相済み
(安政二乙卯(1855)年7月7日


このような資料が現実に残されているからこの時はすでに越中の移民が入っていた。どうして相馬藩の飢饉の窮状が伝わったりしたのか、江戸時代の情報はどうしして伝わったのか?やはり江戸への参勤交代や江戸が情報の発信地だった。商人や船乗りなども情報伝達者だった。何よりも江戸に来れば全国から人が集まるのだから情報も集まる。それでこの話が生れた。
江戸時代の資料を読むのも郷土史に欠かせない、資料は無味乾燥で興味がそそれない、文章もよみづらい、でもよくよく読めば江戸時代のことが事実としてわかるから興味がでてくる。
相馬の飢饉があり越中から移民があったことは知っている。でも他からも少なくても移民はあった。だから九州の地名がなぜ相馬にあるのかということで前にも書いた。越中の富山の薬は海路でも運ばれ薩摩との交流は有名なのである。越中の薬売りが情報伝達となり伝えられたこともいろいろあるだろう。江戸時代は一つ一つが謎になる。その謎をイメ-ジして結びつける作業が必要なのである。それがわかるとさらに江戸時代に興味をもつようになる。

天保一四卯十一月廿八日 父万之助 三拾才己
文化八末六月八日 秋田国秋田郡大久保村父孫右ェ衛門 亡
文化九申九月八日 丹波国天田郡梅表村父又兵衛 亡
同母そよ、六十一才
弘化二己七月十五日 磯部村父平田林助
同妻トメ 二十八才


文化→天保→弘化→安政となるが ここでどうして秋田国と丹波国から来た人がいるのか?この一家の謎は解きあかすことはできないだろう。父が二人いるのも不思議である。これは資料にあったから嘘ではない、しかしどうしてそんな遠くから相馬の地に来たのか皆目わからないのである。

越中、越後は移民で来ているからわかるがこれらはわかりにくい、でも越中だけではない、他からも遠くからも移民は来ていたのである。 天保七年にも飢饉がありその前にも飢饉は継続してあった。父が二人いて母が一人とういのも不思議である。万之助は母そよの子供であることは確かだろう。京之進が江戸に医業の修行に行ったのは安政であり明治に近いからその頃江戸に学問やら技術の習得に行った人はふえてきた。江戸時代でも時代により違っていた。明治に近くなれば人の交流はさらに盛んになっていたのだ。相馬藩の資料から無数の物語が生まれる。この資料の謎もその一つにすぎないのである。
posted by 天華 at 02:07| Comment(0) | TrackBack(1) | 江戸時代
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Tracked: 2011-10-22 20:06