2009年02月11日

人生は長距離走である (NHK-双子の不思議に学べを見て)


●短距離は遺伝の作用が大きく長距離はそうではない

 
一卵性の双子で短距離と長距離を比べると短距離は遺伝しているから成績にばらつきがない、ところが長距離になるとばらつく、長距離は遺伝があまり作用しない、その本人の意欲とかが作用する、これはわかった、スポ-ツでも遺伝が強く左右するのとしないのがある。長距離は鍛えようによって成績をあげることができるスポ-ツなのである。短距離は脚力とかすでに決まっているから遺伝で決まる、黒人が短距離などでは抜群の成績をあげるのはそのためである。病気にしてもライフスタイルとかで変わるとか健康や寿命は遺伝ですべてが決まるわけではない、暴飲暴食したらいくら健康な人でも長生きできないし病気になりやすい、喫煙の習慣ある一卵性の双子の一方は早く肌などが老化していた。体力的能力であれ知的能力であれ後天的なものも大きく作用するのだ。動物は本能で生きるが人間は後天的なもの環境の影響力が大きいのである。一卵性の双子でも一方が日本で一方が外国で暮らしたら全然違った人になってしまうのと同じである。知的能力で数学の能力は遺伝が作用しないと言っていたがこれは嘘である。なぜなら文系と理系は全く違った人間のようにさえ思うからである。理系の脳の人は何事理系的に思考しているのだ。文系の脳と根本的に違っている。こっちのほうは明らかに遺伝しているのだ。
 
●人間は後天的環境の影響が大きい
 
短距離などは遺伝であり天才は短距離型である。凡才でも長距離ならそれなりに才能を開発できて能力を発揮できるのだ。知的な能力でも環境の影響が大きいのである。家庭で知的環境があるものはどうしても知的能力が発達しやすいだろう。学校より家庭の方が影響している場合もある。ヨ-ロッパに天才が多いのは貴族の家に育ち家庭教師に一対一で教えられたような人が能力を発揮している。学校は個性にあった個性的な教育はできない、だから学校教育では個性的な才能は発見されないし埋もれてしまう。人間は何事生まれつきの能力ですべて決まるわけではない、たとえばいくら能力があっても道徳に堕落した生活を青春時代にしているとほとんど良きものに向かうエネルギ-が喪失する。青春の浪費はだから恐ろしいのである。人間の能力は外部からも付け加えられる。なんらかその人の能力ではないものが外部から霊的に注入されることだってありうるのだ。そういう不思議が現実にあるのだ。そもそも遺伝子にないものが外部から加味されることがあるのだ。そして人生とは長距離だからその人の意欲、向上心とかが長い間に作用してくる。忍耐して勤勉に積み重ねてゆく人はやはり何らかの成績を出すことができる。天才的でないにしろやはり天才的な業績にも追いつくようなものがなし遂げることもありうる。この世のものはすでに生まれつきで決まり天才的なものも生まれつきだから凡人にできないことだとか言うのは間違っている。それは人生は短距離ではない、長距離走だからそうなる。確かに遺伝子の働きも大きいにしろそれだけですべてが決まることはない、結局多くの才能は歴史上埋もれさせられた。なぜならその一番の原因が貧困なのである。貧困のために頭を使う労働ではない肉体的労働が強いられ知的能力を発達させることができなくなったためである。それが一番の原因であり結局環境の影響が大きいのである。飢餓状態にあるアフリカから何か知的能力がある人がでてくることはむずかしいのもそのためである。腹を満たすことだけで精一杯だからだ。
 
●人生は長距離走だから積み重ねが成果をあげる
 
いづれにしろ人生は長距離走であり高齢化社会になったらさらにそうである。だから長距離を走りぬくことが大事になる。その人の意欲とか勤勉とかが大事になる。学問自体これは全く長距離ならば何か成果を出すことができる分野なのである。なぜなら膨大な知識は積み重ねの中でしか会得できない、短かったら知識の幅も狭いからそうなる。日本を知るにも外国の文化と相対的に見るとわかりやすい、でもそのためには相当外国を実地に踏んで理解せねばならぬとなるとまた時間がかかるのだ。「少年老いやすく、学成りがたし・・」これはまさに学問の分野があまりに広すぎる、知識が膨大なためにそうなっているのだ。いくら天才でもその一部しか極めていないのである。人生は短距離ではない、長距離だから逆転もありうる、相当前と差があっても縮められる場合がある。学校で劣等生でも社会に出て通用する、それなりのものになっている人はいくらでもいる。学校ですべてが決まるわけではないのだ。自分は学校で最下位でもそのあといろいろ学問に興味をもったから積み重ねたことがある。学校ではどうしても興味をもち得ない、自分の好きなことが見いだし得ないからそうなる。郷土史などは誰でもできる、積み重ねの学問である。人間は不可解であり生まれつきのものですべて決まらない、神の力が働き、新たな能力が加えられることもありうるのだ。 さらにこれだけ高齢化になると最後にどんな優秀な人も認知症になったら最悪であり人間脱落者になる。つまり人間はつくづく最後までどういう結果になるかわからないのだ。最後は認知症にならないだけで頭よくなくても普通の人でも何か認知症になった人よりは優れた人だなとつくづく見えたから不思議なのだ。つまりゴ-ル手前で倒れたらビリにさえなってしまうのである。それが認知症の恐怖だったのである。高齢化で長距離走になったからそういうことも起きてくる時代なのである。
 
 
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