常磐線-末続駅の謎(新妻氏一族の村だった)
築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久(すえつぐ)社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。
上石川朝臣橋継を遣唐使船修理長官とす。筑前の守従五位の下小野朝臣末継並びに遣唐判官従五位の下長峯宿祢高名は次官となす。
黒田氏は鎌倉末に近江の名族佐々木氏の流れを汲む京極宗満が近江国伊香郡黒田村に拠って「黒田」を名乗ったのがはじまりと言われ、室町後期の高政に至って将軍足利義稙の怒りを買い、前述の備前福岡に移ったとされています。ですから「黒田氏の発祥」ということになると近江になる訳ですが、備前に移るまでの二百年間のことはよくわかっておらず、長政にとって「父祖の地」と言えるのが「福岡」だったということかもしれません。
(1415―76)
琉球(りゅうきゅう)王国の第二尚氏王朝の開祖。金丸(かなまる)ともいい、神号を金丸按司添末続之王仁子(あんじそえすえつぎのおうにせ)と称した。伊是名(いぜな)島の百姓の出と伝わるが詳しい経歴は不明。
『千葉大系図』によれば「故あって肥前国から近江国に移り住み、天文7(1538)年、守護・佐々木氏の扶助を受けた」とあるが、
近江の国の守護を鎌倉時代以来相伝してきた有力御家人・佐々木氏の本家であり(分家が近江半国守護を相伝する守護大名・六角氏である)、足利氏からみれば外様である
末次という名は出雲から発しているから古い、古代に末次郷があったことでもわかる。末次は須恵であり陶であり須恵器を作ることから発した、渡来系の名から起こっている。末高、末野とかも須恵、陶から波及したのである。その末次は佐々木氏と関係してくる。ササキも渡来系の名だとある。これが近江に進出してそこから中国や九州に波及した。だから末続という姓は九州に多く子孫が繁栄した。 末続でなくて末次だと調べやすいし末続は調べにくい、中国、九州に一族は散らばった。福岡の末継という地名も同じ系統だろう。末次氏が地名化したと同じである。近江から波及してここに千葉氏がかかわり佐々木氏から末次氏もかかわり千葉氏と相馬氏は同族であるから末続は相馬氏からもたらされたのかもしれない、末続館というのがここの地名の基となったと思われるからである。ただこれは全く違っているかもしれない、小高の海側の南北朝時代の貴布根神社がある村上氏に由来する館がありそこの地名は村上だから氏族名が地名化することはある。相馬も相馬氏の氏族名だし千葉県も千葉氏である。なぜ相馬野馬追いの旗があれほど多様で多いのかというと千葉氏一族から相馬氏が出た同族だとすると千葉氏系統の武将が相当入っている。すると近江と深く関係してその旗は全国規模の旗印になっているためである。
●末続は新妻氏一族の村
新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。
相馬顕胤は大永5(1525)年8月、久浜(双葉郡広野町久浜)、四倉(広野町四倉)を攻略。続いて仁井田城(広野町上仁井田)に攻め寄せたものの、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず、義弟の西右衛門尉胤次が討死を遂げた。この苦戦に、顕胤は手勢を迂回させて岩城氏のもっとも重要な拠点のひとつ、白土城(いわき市南白土)に攻めよせた。さすがに岩城氏の抵抗は激しく、相馬家大将の一人・青田孫四郎常義(新山城主)が討死をするほどの激戦だった。
ここで相馬氏と岩城が領地争いがありもともと岩城氏に属していた新妻氏があとで相馬氏に組み入れられたのかもしれない、城代・新妻氏の好守になかなか攻め落とせず・・・とあるのはその時から新妻一族がここに根付いていたのである。その継続として末続に新妻一族がある。ここの墓地を見たらほとんど新妻の姓だった、9割は新妻氏だった。古峰の碑に寄進した名前が彫られているがこれも新妻氏であり鯨岡とかもある。鯨岡は岩城氏から入ってきた。相馬ではなじみがないからだ。また千葉の姓が一つありこれは相馬氏系統から入ってきた。
末続の旧名主の家の人で、相馬藩の参勤交代のときは殿様が泊まったとか、もと新妻家だったのが千葉姓と「常」とか「胤」にちなむ名前をもらったとか興味深い話を聞かせていただいた。相馬藩は千葉氏が千葉から分かれてきた。先祖は鎌倉武将千葉常胤に遡る。
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/
iwakisoumakaidou9hisanohamatatuta.htm

●岩城氏、(末続村)新妻氏、根本氏は相馬氏の旗下へ入る
標葉郷-熊村,熊川村,夫沢村,小良浜村,小入野村
陸前浜街道で宿駅として末続駅があり次が久之浜駅だから常磐線でもこれを継承して駅となっている。末続村で岩城氏と相馬氏が争ったことは史実として確認されている。その後岩城氏の一部も相馬氏に仕えることになる。だから岩城氏の旗印も記されているし末続村の新妻氏も中ノ郷の旗印にある。それから根本氏は標葉郷の大熊の小入野村に三者記されている。小入野村の近くの夫沢村にも根本氏の旗印が記されている。 そして古峰の碑に寄進した姓の中に根本氏も二人ほど記されていた。根本氏ももともと岩城氏の一族であり相馬氏と戦い相馬氏に仕えるようになった。こういうことは戦国時代はよくあったしだから野馬追いの旗にはいろいろな氏族の系統が混じっているのだ。新妻氏と根本氏は領地争いの境界にありあとで相馬氏側に組み入れられたのである。だから根本氏は小入野村と夫沢村に一末続村より一族として移動したのである。境界には歴史が凝集して残されているから境界の研究は歴史を解きあかす鍵となる。それが末続村にあった。

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兵吉は、明治25年6月4日に55歳で亡くなっています。福島県の末続村と言う地名は初めて知りました。先祖は伊達政宗に仕えていたのは聞いていました。兵吉から、さかのぼっての先祖の名前が知りたいのです。わかりませんか。
・・・・・・・・・・・・・・
新妻兵吉はあなたの先祖ですか?
石碑に書いてある新妻兵吉ですか?
それは自分も驚きです
末続駅は小さな無人駅ですよ
そこの墓所もほとんど新妻姓ですから
あそこは新妻一族の村だということが
明確にわかったので印象に残りました
末続駅は結構高い所にあったがあそこまで津波が来たのか、下の方は津波の被害があった
末続はいわき市の範囲になるので
調べるとなるといわき市の方になるでしょう
大熊町はすぐ隣で夫沢なども相馬藩内に入っていた、そこは津波とか原発事故の渦中にある。
自分も新妻兵吉があなたの先祖だということは驚きです、良く読んで発見したと思います
兵吉は宮城県の涌谷町に移住してそこから
北海道に移住したのでしょうか?
新妻姓は宮城県に伊達氏にも多いです
むしろ伊達氏の方に新妻一族が組み入れられたみたいです
これは一つの郷土史の発見でしょう
問題はどうして調べるかになる
今のところ津波、原発関係でそういうところを詳しく調べられない
いわき市の方に行くことができませんから
末続にも常磐線は当分は通りませんから
江戸時代まで先祖がたどれた人は先祖探しではそれなりに成果があったということでしょう
自分は戸籍で確かに江戸時代までたどることができましたが家系がしっかりしていないのでよくわからなかった
武家だったり農家だったりすると家系をたどりやすい、葛尾(かつろう)
村から双葉町に
丁稚奉公に出てきた親でしたから
北海道の人は自分のル-ツを知りたい人が多いみたいです、移住したからそうなるのでしょう
阿寒湖に冬に行ったけど寒かったです
あのとき温暖な時だったが
阿寒湖はしびれるように寒かった
北海道に移住した人は寒さに耐えるのは
大変だった、開拓するのも大変だった
そういう苦労話しは残っていますから・・
自分なりに少しづつ調べようと思っています。
何か、新しい発見がありましたらお知らせ下さいますか。この度は有難う御座いました。
重ねてお礼申し上げます。
自分も驚きでした
インタ-ネットでは膨大な郷土史の情報があります
石碑一つ一つでもインタ-ネット化で情報化されると書いたことがありました
それが現実化したのでしょう
郷土史は普通地元の人しか読みませんが
実際は全国の人が読んで調べているのです
自分も調べていますから
インタ-ネットでそういうことが可能になったのでしょう
何かわかったらまた書きますのでよろしく
これは古峰という碑でしょう
古峰にお参りした記念の碑でしょう
古峰神社は浜通りにはないでしょう
湯殿とか碑があっても神社はないでしょう
碑があっても神社はないのがあります
実際に訪ねてこの古峰の碑が見つからなかった?
地元の人に聞けばわかったかも
自分もここは一回くらいしか行っていません
手違いがありコメント見過ごしていました
古峰の碑の場所は記憶にありますか?
何か目印になるような建物とか…?
道路脇の目印になる看板とか…?
脇道に入る目印とか…?
10月21.22日にいわき市に参ります。
末続の地域で探す予定です。
長年の希望を叶える事が出来、また旧名主の末裔の方にもお会い出来ました。
これもご先祖様の導きと感謝してます。