2009年03月21日

末続村の謎(2)-相馬氏にも末(須江)氏がいた

●「奥州相馬氏の誕生」  
平将門の血を引くと言われる、奥州相馬氏の誕生は鎌倉北条氏(長崎氏)に圧迫を受け、茨城県下総地方から奥州(福島県相馬地方)に下向したので有る。元亨3年(1323年)頃かと思われ、当主は相馬重胤の時代で有った。奥州相馬家ではこの重胤を初代としている。

重胤が下向した道程は、茨城県下総地方(千葉県を含む)から白河口に向かい、ここから阿武隈高地の標葉(シネハ)の津島に出て、鉄山(現南相馬市)から太田川の上流に有る横川に沿って、片倉の八重米坂に着いたと言われる。

この経路は義経伝説がある場所であり津島に弁慶石があり浪江に出る方に弁慶橋が二つくらいある。八重米とは八重原米に由来するものか?米の品種なことは間違いない、その米は特別なものだから目立つから地名化したのだろうか、四重麦という地名が丸森にあるからこれともにているのかもしれない、長野県東御市八重原地区の「隠し田」で作られたコシヒカリです。八重原米というのは昔からあったからもともと八重原で作られたからその土地の名がついたともとれる。

ここから上太田石積に住む「太田兵衛」に迎えられ、一時その屋敷に滞在し、さらに東数町の別所の館に住む「三浦左近」から館の提供を受けて移り、それより四年後の嘉歴元年(1326年)に小高町舘内(現南相馬市小高区小高神社)に移ったと言われる。

上太田石積という地名は相馬氏が来る前からあった。その太田の地名をとって「太田兵衛」が住んでいたのである。

始めて踏んだ太田の地には下総地方から奉じてきた「妙見神社」、「塩釜宮」、「日鷺宮」の三宮を祀り安じた言われる。

下総から従って来た者は主従13騎と言われ、相馬重胤を始め、門馬(文間)氏、木幡氏、青田氏、須江氏、西山氏、増尾氏、立野氏等で有った様です。また下総の岡村(旧藤代町)からは百姓八戸が移り住み、正月には相馬家の門に門松や注連縄を飾る事を任務にしていたと言う。

武家だけではない、百姓も移住してきて相馬家に仕えていたのだ。

●相馬氏の須江氏
須江氏も全国で5百軒もない珍しい姓氏です。
福島でも、伊南と相馬(小高・原町)の二ヶ所のみです。他は、関東と長野の佐久、岡山の津山に集中しています。戦国時代の奥会津に須江氏の姓名はみえませんが、山内氏に従って奥会津にはいった諏訪氏は後、諏佐氏、須佐氏を名乗っています。須江氏も山ノ内氏滅亡後、諏江氏からの転化も十分考えられると思います。


芦名家臣- 須江氏

(参考文献:戦国大名葛西氏家臣団事典 紫桃正隆著(宝文堂))
 深谷石崎氏は、磐井郡長坂城(東山町)七代当主の千葉日向守胤重の二男千葉胤清(勘解由)が、応永二六年(1419)桃生郡深谷に分地して、糠塚館に居住したとき、母方の姓の石崎を名乗ったことに始まる。胤清の母は京都聖護院石崎右衛門尉源清長の娘である。石崎氏の家紋は三ツわらび、氏神は貴船神社とある。石崎氏は勘解由を世襲名としたようである。姓氏家系大辞典にも、「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘、古昔石崎勘解由左衛門なる者居る所」なる記事があるがこれと符合する。


千葉氏系統に石崎氏がいた。 陸奥国岩崎郡は常陸と陸奥の境目にあり重要な地域だった。

いわきの歴史年表

鎌倉時代
(建長七)(1255) 大須賀氏、小久に龍光禅寺を開基す
弘安9(1286)岩崎氏一族、熊野参拝
文保(1318)奥州岩崎郡長谷寺木造一一面観音立像造立


新妻氏が大須賀氏の出自かはわかららないのですが、仙台藩の家中にあった新妻氏は、下総国匝瑳郡を発祥とする匝瑳氏(千葉介常胤の叔父・常広を祖とします)の子孫と伝わっています。岩城のほうに移住していますので、大須賀氏とともに下総から移っていったのかもしれないですね。

鎌倉時代に大須賀氏、新妻氏、それから岩崎氏が関係して須江邑がその関係で生まれたように末は鎌倉時代にさかのぼる。須江氏は会津にも分布しているし宮城県にも須江邑として地名化しているから須江はわかるが須江⇒末⇒末続となるのかどうかこの辺がわかりにくいのだ。ただ姓の系統をたどってゆくとこの須江が末続に通じてゆくのが有力になるのだ。

千葉一族。須江時胤は相馬重胤に従って奥州に下向、相馬四天王の一家となる。中村藩政内では「末」とも称した。

―須江氏略系図―

→須江時胤…胤遠―――秀正――+―杢之進
(備中守)(山城守)(新十郎)|
               +―雲====九郎兵衛―――三郎兵衛
                (新大夫)(木幡家より)


◎安政2(1855)年『相馬藩御家中名簿』

名前 身分 石高 住居
須江三郎兵衛 大身 100石 鷹巣町
◎安永6(1777)年『相馬藩給人郷土人名簿』

名前 身分 石高 住居
末 八郎左衛門 給人 15石 行方郡中郷高村
末 庄右衛門 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 任市 給人 8石 行方郡中郷南新田村
末 三五郎 給人 5石 行方郡小高郷小高村(のち上根沢村)


ここでは須江が末となっているから末続となっても不思議ではない、末氏は集中的に存在していたことは末氏の勢力が大きかった。この末は須江氏でありそれが末になった。中郷には新妻氏が末続村から移住して旗印が記されている。二宮仕法で有名な高田高慶は45歳になって藩公のお声かがりで継室を迎えた。新夫人はサイといい中村藩士須江氏の娘だった。須江氏は江戸後期まで有力な武家として存続していたのである。これらの資料から推測するとどうしも相馬氏系統の末氏がかかわり末続という名が生まれ末続村となった。

●相馬氏にない石崎の姓

須江氏をたどると石崎氏の系統から「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」これが一番古いのだ。石崎氏がいわきに入ったのは鎌倉時代だからである。相馬氏内には石崎という武家の姓はない、岩崎はあるがこれとは違っている。古さをとれば石崎氏から須江(末)という名が入り末続となった。新妻氏が入った時、末続村という名はあった。相馬氏には確かに末氏というのがあり末氏一族が分布した。中郷(原町区)に集中的に存在した。これは鎌倉時代ではない、
地名は古いからより古い方が地名の基となったとするのが無難である。 相馬藩の領地争いで抵抗したのは新妻氏であり青田氏などはかかわったが末氏がかかわったとは史実にはない、ただ末と末続は何らか関係しているので無視することはできない、末続館の由来がわかれば何か解決するヒントがでてくるかもしれない、それが相馬藩のものだったのか岩城方の館だったのかそれがポイントである。末続村から出た根本氏は標葉郷の小入野村と夫沢村に在地化して根を張り相馬藩の城下士となった。もともとは末続村から出た子孫だったのである。氏姓を研究するときある地域にない姓というのが意外と大事なのである。現代は明治以降は姓は混交してわかりにくい、でも江戸時代の姓を基本にして研究すると石崎の姓がないことは石崎という一族は相馬氏の一族内に入って来なかったことを証明している。岩松氏というのも家臣の反逆でその姓がたたれたことは歴史の厳粛な事実であり今もつづいている。鹿島区内に岩松の姓はないし相馬地方にないのである。

正平二三年1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠 通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る。
天正十八年 1590 石崎氏が出たとされる常陸大掾一族は、佐竹義重に天正十八年ことごとく攻め滅ぼされた。
天正十九年 1591 石崎次郎左エ門幹継のとき、茨城より栃木県芳賀郡天子村に来住し、下野の石崎の祖と一つとなった。
慶長八年 1603 内藤家分限帳に石崎半左衛門200石が見える。
寛文十一年 1671 内藤家磐城に入封、寛文十一年(1671)分限帳には、石崎半左衛門300石が見える。
宝永元年 1703 石崎氏、仙台より宇和島に移住、宇和島の石崎の祖か。

石崎氏は相馬氏には仕えず伊達家に仕えた。陸前の「陸前の石崎氏 封内記に須江邑古壘」とは宮城県である。

正平二三年 1368 奥州中村城主(一説では石崎城主)の中村弾正忠通行は北畠顕家に随行後、豫州能島へ下向し、河野氏に属す。中村氏の子孫が石崎氏を名乗る)

これが不思議である。中村城主が石崎城主だったとなるとやはり石崎氏も関係していたのか?ただ相馬氏には石崎姓は見当たらない、ただ石崎姓はこれでわかるように古くから奥州にかかわっていたのだ。


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posted by 老鶯 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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