2009年03月24日

標葉郷(浪江)-末森村の謎


標葉郷(浪江)-末森村の謎

 

御棚町(おたなちょう)

 古くは「御棚妻」といいました。末森城主の奥方を「御棚の方」と呼んだからという説と、陶器を乾かす棚を「御棚」といったからという説があります。

末盛通(すえもりとおり)

 江戸時代には末森村と呼ばれていました。陶(すえ)・末は、古代の部民である陶器製造に従事した人々の地名に多く、「陶器を生産する森」であったと解釈してよさそうです。ちなみに、東山一帯は、陶業の発祥地です。

信秀殿は古渡の城を破却し、末盛@という地に築城して居城としていた。
今日は弘治2年8月23日です。この末森の城は、9年前の天文16年(1547)、信長の父である織田信秀が築いた城です。

 尾張町は加賀藩祖前田利家が出身地の尾張から町人を呼び寄せ、ここに住まわせたことに始まる 能登の境にあった末森城の戦いは有名

末森村が浪江(標葉郷)にあった。末森村をキ-ワ-ドで調べると尾張が元になっている。末森は末盛が基である。信長の家臣の前田家が加賀に移り尾張町が生まれた。末森という名もその時尾張からもたらされたのか、地名は人ともに移動するからだ。浪江に末森村があり棚塩村がある。棚塩村というのはキ-ワ-ドでひいても他にないめずらしいものである。この地名がいかにして発想されできたのかとなると

尾張(名古屋)御棚町(おたなちょう)がある。古くは「御棚妻」といいました。末森城主の奥方を「御棚の方」と呼んだからという説と、陶器を乾かす棚を「御棚」といったからという説があります。

どちらにしろ棚という字を使っている。それは棚塩と結びつく。今でも陶器は棚に並べているから棚と関係している。不思議なのは末森と大堀は近接している。するとやはり末は陶であり陶器生産と関係していたのか、地名は人とともに移動する。末森村が渡辺氏二人が野馬追い旗帳に記されている。棚塩村にも一人記されている。渡辺氏が深くかかわっていた。その渡辺氏は尾張から出た渡辺氏となる。その経路は千葉氏や相馬氏とのかかわりにあった。ただ末森村というのをキ-ワ-ドでひいたかぎりでは尾張(名古屋)にしかなく棚塩という地名もほかにないのだ。これらが二つセットで尾張からもたらされたものなのだろうか?棚塩とあるのは海に近いからかもしれないがなぜ棚とついたのか不思議である。尾張から移った人が尾張で棚というのを使っていて棚塩と命名したのだろうか?ともかく末続にしろ末森にしろこれは陶でありその土地に陶器生産のための土を求めた人がその名をつけたのかもしれない、ただ別に末とあっても陶器生産とは関係ないのも多い、石崎氏が須江(末)の村と名づけたのはやはり陶器を作る村という意味があったのかもしれない、単に須江氏の移動だったかもしれないからどうともいえない、いづれにしろ地名は人とともに移動している。相馬に尾張屋敷などがあるがこれは相馬の移民のとき移って来たものだろう。でもその前に尾張からの人の移動がありそこに移った人が故郷の地名を名づけたのかもしれない、複雑なのは千葉氏-相馬氏と経由しているからわかりにくいのだ。その間に時間の経過があるから末が陶と関係なくなっているのが多いから謎である。ただ末続も末森も共通性があるのか、共通性があるとしたら末-陶であり陶器生産の関係となる。その他相馬の末氏が関係してなったのか、末の謎は深いとなる。

 

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posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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