2009年03月29日

いわきの姓と相馬氏の姓

●日本人の姓はその土地や村の名に由来している

日本人の姓と外国人の姓は違う、中国とか韓国とかヨ-ロッパでも属人主義であり属地主義ではない、血統を重んじるのが外国である。日本人は住んだ土地に属するから血統主義ではない、姓の基は必ずある土地の名、地名であり村の名である。中国とか韓国では姓によって系統がわかり派閥を形成する。姓の名が国の名でもあったりする。韓国でも姓が重んじられて未だに結婚さえ姓を重視して行われている。一族意識が非常に強い。国の名というとき李とか朴とか日本で名乗っていればその人は在日であり韓国の一人だということを宣言している。国は韓国だよという意志を示しているのだ。日本人の姓にするとそれは不明となる。姓とは国の名であっても不思議ではないことがこれでもわかる。日本だと姓による一族意識よりその土地に根ざした村意識が強いのである。だから養子という制度が行われたのは血統にこだわらない、家業を優秀な人に受け継がせるものであった。相馬氏というのも確かに移住してきたのだがそもそも相馬市となったのは最近のことである。相馬市はもともと中村市だった。中村は昔からありだから相馬氏であってもその土地の名の中村を名乗るようになった。この名づけ方は日本では一般的である。だから相馬氏だからといって村の名前に相馬や相馬一族の姓が村の名前となることはない、相馬地域でも小高の村上というのが姓であるが南朝時代の北畠系統のものでありその他別に相馬氏一族のものでも村の名となることはない、黒木とあれば黒木氏があったとしてももともと黒木という地名があり黒木氏になったのだ。一般的に公式的には日本の姓の名づけ方は土地に由来している。相馬氏が移住して支配したからといって地名はもともとあったものでありかえって相馬氏でもその土地の名、村の名を姓としている。相馬氏でも中村に住めば中村氏と名乗ることになる。

●いわきの村の名前に一部姓を用いたもの

寛永2年(1625年)に記された『岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚』には、浅草浪人中の貞隆に随従した家臣・四十二士の名がある。

好間兵部大輔、佐久間総右衛門、大館帯刀、高橋五郎右衛門、大塚内蔵頭、鵜沼主馬、服部監物、新妻久左衛門、中山采女、佐藤右近、加瀬太郎兵衛、古宇田新助、秋山采女、中山主殿、八嶋宮内、諸橋玄蕃、大館備前、駒木根茂兵衛、志賀八左衛門、小泉九郎左衛門、四倉下野、富岡伝七、白土孫七、鵜沼図書、白石又右衛門、大須賀織部、斎藤兵左衛門、長谷左門、三浦七兵衛

この中に四倉下野、富岡伝七とあり四倉の隣が富岡町であるから四倉がここから生まれたのか、姓を基にしている。四倉氏が移り四倉となった。小泉も小泉村があるからそうなる。いわきには一部に姓を村の名としているところがある。 大館とか白石も市の名としてあるからここから起こったのだろうか?

四倉下野⇒四倉町 富岡伝七⇒富岡町 白石又右衛門⇒白石市、大館帯刀⇒大館市 秋山采女⇒秋山村

四倉と富岡はこの姓に由来しているのだろう。その他に由来を考えることができないからだ。その他は地名化するにはいろいろあるから判定はむずかしい。

秋田久保田藩(藩主:佐竹氏)の藩士に四倉家という家があります。この家も千葉氏の流れをくんでいるようです。関が原の戦い以後、岩城氏は佐竹氏とともに秋田へ移っていったことがありますので、窪田藩四倉一族となにかご関係があるのかもしれませんね。

四倉は単純に四つの倉がある町だと思ってしまうが姓が基になっている。その他いわきには平安末期に岩城氏の所領となり東庄と西庄に鯨岡、国魂村とかありこれらは氏族名である。
末続も姓としか考えられないがその由来は不明である。ただ須江(末)一族は有力な氏族でありやはり末という姓を基にして末続となったとしか考えられないのだ。

●新妻氏と千葉氏

新妻氏と千葉氏は一体であった。もともと千葉氏から新妻氏や相馬氏から出たのだからそうなる。

寛永年間にこの地に移り住んだと伝えられる新妻胤重(にいづまたねしげ)といい、新妻家の祖である。かつては伊達政宗に仕え、のちに栗原郡岩ヶ崎において正宗の五男宗信(むねのぶ)の補弼役(ほひつやく)を務めたと言われている。墓地は川の右岸にあり、極めて小規模な段丘面に位置していた。新妻家墓地は、市道七北田−国見線の新設工事に先立って、昭和59年(1984)に改葬が行われた。墓石には埋葬の年月日や戒名が刻まれており、最も古いものが寛文10年(1670)に、最も新しいものが明治12年(1879)に埋葬されたことがわかる。29基の墓のうち、新妻家の墓は15基、新妻家とは直接関連性は無く、武士と考えられる千葉家の墓が6基、名字は無く名前だけのもので武士では無いと考えられる墓が4基、不明な墓が4基である。当初は新妻家の墓地であったものが、千葉家などの墓地としても利用され、3系統以上の被葬者群が想定される。

(仙台市の遺跡)

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/
bunkazai/iseki/k0000000091.html

新妻家は相馬氏にも一人旗印をもっている者がいたが姓としては少ない、伊達氏の方に多く移住したからそこに新妻家の墓地が残っていた。そこに千葉姓のものがありのちに千葉氏の一族のものの墓地となったのもそのためである。末続村の古峰神社の寄進した名には千葉氏は一人しか記されていないが新妻氏と千葉氏は一体であったことがこれでもわかる。

末続の旧名主の家の人で、相馬藩の参勤交代のときは殿様が泊まったとか、もと新妻家だったのが千葉姓と「常」とか「胤」にちなむ名前をもらったとか興味深い話を聞かせていただいた。相馬藩は千葉氏が千葉から分かれてきた。先祖は鎌倉武将千葉常胤に遡る。

この話もあとから作られたのかもしれない、史実と関係なく作られる話も結構あるからだ。地名の由来の話にもあとからこじつけられた話が多いからだ。別に相馬藩と関係しなくても新妻氏と千葉氏は一体だからこうなったのである。その証拠が 仙台から出た新妻家の墓地だった。相馬氏と関係なく新妻氏と千葉氏は一体であり末続村の新妻氏は岩城氏に仕えていたし岩城氏は平安末期がらいわき地方に所領をもっていた。千葉氏もそのなかに入っていた。相馬氏は千葉氏から別れた一族であり岩城氏のあとに相馬氏が勢力を伸ばしてきたのである。相馬氏は新興勢力だったのである。相馬氏には千葉氏の姓がないのもそのためなのかもしれない、千葉氏から相馬氏が出たとしても千葉氏の旗印を用いるとしても千葉氏とは袂を分かったから千葉氏の姓がその後相馬氏の中の武家名鑑に出てこないのかもしれない、・・・・

posted by 老鶯 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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